プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生56」
アユミから譲ってもらったピアノを、業者に依頼して今日自宅に搬入してもらうと秋子が言い、そこにアユミが
立ち会うことになったので、小川はその間を利用してアユミの夫に会いに行くことにした。呼び鈴を鳴らすと
アユミの夫はすぐに出て来た。
「やあ、小川さん、私も一度お宅にお邪魔したかったのですが、今となってはそれも難しくなりました」
「と言うと...」
「今度の日曜日までに転勤先の九州に行かなければならず、とても時間が作れないからです。だもんで、訪ねていただいた
のはちょうど良かった。それで、ここにわざわざ来られたのは...」
「多分、お聞きだと思うのですが、アユミさんが月に1度東京に来られその時に3日程家に宿泊したいと言われている
ことなんですが、どうお考えですか」
「小川さんは、アユミの淑やかとは言えない行動に対して必要以上に警戒しているのではないんでしょうか。外を
歩いていても、家にいても何かの災いが降り掛かる危険性はゼロではないのだから、不幸にしてそのようなことが
生じた時には腹を決めて受け入れるようにしないと仕方がないんじゃないかな。でも、それをそのまま受け入れるのは、
痛いから、それなりに身体を鍛えておく必要はあると思いますけど」
「日頃から何か...」
「大学時代にプロレス愛好会に所属していてかなり鍛えたのですが、その筋力を落としたくないので、毎日最低3時間は
筋力トレーニングをしています。大学を卒業して15年になりますが、瞬発力は落ちたかもしれませんが、筋力は
その時よりもあると思います。胸板も少し厚くなっていると思います」
「でも、なんでそこまでする必要があるのですか」
「そうですね。夫婦にはそれぞれ愛情表現の仕方があって、私たちの場合はどつき合いなのです。脳しんとうを起こす
位の衝撃(パンチやキック)を受けると私たちじゃない、私の場合は愛が深まるのです」
「......」
「あなたは信じられないかもしれませんが、人から見るとばかげたことであっても当人たちにとっては至って真剣に
やっていることもあるのですよ。あなたが危惧されているのは、アユミのパンチや投げ技を喰らうことでしょう。
で、それをどうやったら避けられるだろうかということを聞きに来られたのだと思いますが、私は今までどうすれば
その衝撃を受けられるかを研究して来たので、どうすればそれを躱すことができるかはわからないのですよ」
そう言って、一旦アユミの夫は小川に背を向け隣の部屋に行ったが、すぐに戻って来て小川に微笑みかけてメモを渡した。
「そうは言っても、私がいれば少しは防波堤の役割を果たせると思うので、なるべく二人で一緒に東京に来て、ホテルにでも
宿泊するようにします。でも100%そうすることができないので、万一の時の連絡先をお教えしておきます」
「それは助かります」