プチ小説「いちびりのおっさんのぷち話 高校時代にクラブをやっていて良かった編」

わしは中学校までは模範的な少年やった。成績はまあまあやったけど、病気で長期に休むこともなくぐれることもなかった。高校に入っても中学生の時のように先生からの丁寧な説明があってノートに書き写してたらそこそこの成績が残せるやろと思うていたところ、数学なんか説明を全然せんと練習問題を解かしてその説明をチョットだけして終わりやった。わしは定期試験の勉強をどうしてよいかわからず三角関数もベクトルも理解できず路頭に迷ってしもうたんやった。それが他の教科にも影響して理系特に物理も皆目わからず、英語も単語が記憶できずに劣等感を持って毎日授業を受けていた。塾に行ってある程度の学力がないとついて行けへん授業やった。そやから6時間目の授業が終わったらすぐに家に帰って、夕方のアニメの再放送を見ていた。そうして7時台はバラエティ、8時台は巨人のプロ野球中継を父親と見とった。そんな生活をしとったから、学力は低下する一方で高校2年生の時にはクラスでお尻から2番目の成績になりよった。高校一年の時数学で赤点取ったけど、尻から2番目はもっとこたえた。それでもそれからちょびっとだけ勉強時間を増やしたら何とか持ち直して卒業だけはできた。それでもどこの大学も受からずしばらく浪人して何とか入れたんやった。それでも15才から20才の頃に何の苦労も知らんかったら、与えられたものを受け取るだけの人生に成っとったかも知らん。いろんなことに好奇心を持って千手観音のようにそこいら中に触手を伸ばすようになったのはわしは振り返ってみると良かったと思うとるんやが、ほとんどが中途半端で終わっとるのは食い散らかしているだけのように見えるから周りからどんな風に見られているかが気になるところや。船場も高校生の頃は劣等生やったけど、わしと違って写真部に入ってクラブ活動に励んどったみたいや。昨日、2年先輩、1年先輩、同年、1年後輩の8人が摂津市内の居酒屋に集まったみたいや。2時間半程で終わったみたいやけど、37年ぶりの再会が出来てほんまに楽しかったと言うとった。どんなんやったか詳しく訊いてみたろ。おーい、船場ーっ、おるかーっ。はいはい、にいさん、写真部の集まりが楽しかったかということですね。いや、それだけやない。あんたの高校の頃の苦労話や宴会で出た興味深い話なんかをしてほしいと思うんや。そうですか、私はにいさんと同じように中学校までは普通の成績でしたが、高校になって数学と英語と国語の授業について行けず劣等感が募って行きました。だから勉強の面ではいい思い出は皆無です。でも写真部に所属して撮影会、合宿、文化祭への出展をしたことはいい思い出です。詳しく言ってほしいな。私が1年生の時は2年生が主役でした。部活は文化祭に出品するために3面スライド、モノクロ写真の撮影をしました。そのための撮影は5月の撮影会、8月の合宿、12月の撮影会でしました。3面スライドとは何や。リバーサルフィルム(スライド用フィルム)を使用して横に3つ並んだ写真を撮り、それを3台のプロジェクターでスクリーンに映し出します。このため一眼レフカメラと三脚とレリーズが必要になります。そうして写したスライドを円滑に画面で見てもらうため5年くらい先輩の方が手製で制御盤を作られました。1つのスイッチを傾ければ3枚のスライドが同時に先送りされ別の3枚のスライドがスクリーンに映し出されるのです。これが表示されている間にBGMとしてフォークソングを流しましたが、1年生の時には先輩が選んだ、アリスの走馬灯、井上陽水の能古島の片思い、帰れない二人、チエちゃん、冷たい部屋の世界地図、帰郷がかかりました。私たちが2年生の時には、高石ともやとナターシャセブンの私を待つ人がいる、南こうせつのさよならの街、風の海岸通り、桜の道、なんとなく、ふるさとの街は今も、お前だけがをBGMで流しました。撮影会はどこに行ったんや。私が1回生の時の撮影会は京都でした。当時(1975年)は市電が走っていました。苦い思い出ですが、その市電の中でスリに遭い2千円ほど入った財布をすられてしまいました。哲学の道や南禅寺の辺りをうろうろしたのですが、入場料がいる銀閣寺には入らず、法然院に長時間いて撮影したことを思い出します。1年生の時の合宿は丹後半島の久僧(きゅうそ)というところでした。1年生の文化祭が終わると2年生は引退しましたが、その後の部会で私たちは神戸で撮影会、合宿は木曽に行こうということに決まり、12月に摩耶山、六甲山牧場に行きました。夜景を撮ろうと寒い中、中継の駅で終電まで粘ったのは懐かしい思い出です。5月は神戸市内ポートアイランド辺りで撮影をしました。8月の合宿では木曽福島に宿を取り、妻籠、寝覚ノ床を撮影しました。私は寝覚ノ床に行かず周辺を撮影したのですが、その多くが3面スライド上映で採用されたので自信になりました。写真部の活動は他に半切または四つ切の写真を木製のパネルに貼り付けて文化祭の期間中に掲示するというのがありますが、撮影会や合宿以外にモノクロ写真撮影に出掛けることがほとんどなかったので私は熱心な部員ではなかったのかもしれません。でも一度フイルムを装填すると20枚から36枚の写真を撮らなければならず現像代などもかかるので撮影時間や費用のことを考えると難しかったのです。一番ええ思い出は何やったんや。寝覚ノ床周辺だけでなくその前の日に行った妻籠の写真も三面スライドでたくさん採用してもらいました。これは写真撮影に自信がなかった私に力を与えてくれました。それから京都の街を訪ね、法然院と哲学の道に行ったことです。そうしてお金がなくても拝観料を払わなくても、京都には素敵な撮影スポットがあるということを知ったことでしょうか。ほんで、集まりは楽しめたんか。みんな苦労して来たということがよくわかりました。みんなが64才以上ですから、仕事をしてないという人が半分くらいでした。それでも私と違って家族をお持ちですから、子供さんやお孫さんの成長を楽しみにしている方がおられ、うらやましく思いました。私と同学年と一つ上の人は嘉門達夫さんのことで共通の話題がありその話で盛り上がりましたが、本人の許可を得ていないのでここでは触れません。宴会の前は一度きりの集まりということでしたが、一年後にまたやろうという感じで会は終わりました。また一つ楽しみが増えた感じです。古い友人は大切にした方がええ。当時一緒に頑張った人と昔を懐かしむのも活力になる。それにあの時はあれだけ頑張ったから、今でも頑張ればできると思えるからな。