プチ小説「こんにちは、N先生 85」

私は高校時代に写真部に所属していたのですが、成績が最低だったので居心地が悪かったことだけが記憶に残っていて高校の時の良い思い出はほとんどありません。それでも写真部の活動で京都や神戸の街を歩いたことや丹後半島や木曾福島の民宿で合宿したことは楽しい思い出になっています。高校を卒業してから高校を訪れることはなかったのですが、同級生の写真部員から先輩、同級生、後輩の写真部員の消息は聞いていました。でもその同級生との電話や手紙のやり取りだけで、直接会うことはありませんでした。そういった状態が37年近く続いていたのですが、今年の3月にその同級生から5月に写真部の同窓会をするから来ないかとの連絡がありました。私は同級生だけでなく先輩や後輩にも声掛けすると彼が言ったので、もちろん参加すると返事しました。そうして今日午後6時30分に阪急摂津市駅前のうの屋で宴会をすることになったのですが、始まる時刻の50分前に摂津市駅に着いてしまい会が始まるまでどうしようかと思いました。私は改札口を出たところにある売店でおにぎりやスナック菓子やソフトドリンクをぼんやり見ていましたが、次の電車が入って来て下車した人が改札口から出て来たのでそちらの方を見ました。10人ほどの人が塊で改札口を出ましたが、その後に千鳥格子の背広を着た男性がやって来ました。それはN先生でしたが、先生は切符をなくされたようで背広やズボンのポケットを何度も調べていました。先生は改札口にいる駅員に言いました。
「切符をティッシュペーパーと一緒に捨ててしまったようです。どうすればいいですか」
駅員さんは、N先生が入場された駅名を聞いて改札口から出してくれました。私はN先生に駆け寄りましたが、なぜ先生が同窓会に行く途中の私の前に現れたか不思議でした。
「先生は今からどこに行かれるのですか」
「君がヘッセの『荒野のおおかみ』を読んだから、いつものように現れただけだよ。でも今日君は高校時代の写真部の部員と同窓会をする予定だから、謎の多い君の高校時代のことを訊こうと思ったのさ」
私は同窓会のことをどうして知ったのか不思議でしたが、何も言いませんでした。
「それはご苦労様ですとしか言えないですね。とにかく私は成績が最低でどうしようもない高校生でした。写真部で部活しなかったら3年間何もしなかったということになるでしょう」
「でも何かの記憶が残る先生はいるんだろう」
「一流企業に入られたと自分の息子の自慢をする先生がいました。自分の名前がなぜ○○なのかを5回くらい説明した先生はいました(昔はそれ以上子供が生まれないようにと祈願するために付けられた名前がありました)。説明をちっともしないで問題を解かし生徒を恐怖のどん底に陥れた数学の先生はいました。でもこの本を読めばためになるとか、自分が担当している科目に興味を持たせるような話をする先生はいませんでした。そういうのがあったら、私は影響を受けやすい生徒でしたからその先生やその科目に興味を持ったと思います。でも残念ながらそういう出会いは皆無でした。写真部に入っていなければ、無駄に3年過ごしてしまったということになったでしょう。もちろん何人かの友人はできましたが、卒業してからも親しくしていた同級生はいません。今から思うと成績があまりに酷かったので友人を作る意欲が湧かなかったのだと思うのです」
「それは寂しい話だね。高校時代に学んだことやたくさん作った友人を生涯の心の糧にする人がたくさんいるのに君はそれができなかったわけだ」
「友人については大学や社会人の時に友人となって今何人か親しくしていただいている人がいるので今では問題はないと思っていますが、多感な時期に先生からためになる話をしてもらえなかったのは悔しい気がします。もし高校時代に将来の方向付けをするような先生に出会っていれば私の人生も変わっていたと思います」
「でも君は長い浪人生活と楽しかった4年間の大学生活でみんなと同じような人生を始められたわけだ」
「大学3回生になってようやく自分で考えて必要な勉強、情報収集をするようになりました。でも数学は相変わらずできず今日に至っています」
「まあ君の場合は好き嫌いが激しくて、それを回避したいというのが出てきたら退散するというのが多いようだ。それでよく65才まで生きられたなと思う」
「そうですね、『荒野のおおかみ』の主人公ハリー・ハラーの取った行動のようにひとりよがりだったかもしれません。でも彼は薬物中毒になったり高級クラブに出入りして若い娘を片っ端から誨淫したりします。社会的地位があった人で今でも教授と親交がある人なのに。若い高級クラブの女性ヘルミーネと知り合っていろいろ教わり新しい人生を歩むのかと思っていたところ、パブロというその女性の友人からイケナイことをたくさん教わって夢現となり、最後はヘルミーネを殺めてしまいます」
「ヘルミーネの最期があったのかは微妙だ。夢の中のようにも思える。それよりこの小説にゲーテ、モーツァルトが出て来てハリーと話すところは楽しい」
「そうですね、ぼくもヘッセが実在の人物を登場させているのには驚きました。他にベートーヴェンやブラームスなんかも出て来ました」
「この物語の主人公は明らかに薬物依存で身を持ち崩している。しかもその主人公が立ち直るということはなく、若い女性と知り合って精神的に立ち直る兆しがちょっとはあったが、パブロという新しい興味の対象が現れてハリーにとってヘルミーネはどうでもよくなっている。そんな得るところのない話だから早々と書店の棚から姿を消したのだと思う」
「そうですね、ぼくも小さい活字を苦労して読んだ甲斐はなかったと思います」