プチ小説「こんにちは、N先生 87」

私は映画で感動して目頭を熱くしたことが何度かあります。特に音楽家の生涯の一部を紹介した映画に弱いようで、「グレン・ミラー物語」「愛情物語」「五つの銅貨」「未完成交響楽」は音楽の相乗的効果も相俟って何度も涙をぽたぽたと落とした記憶があります。でも文学作品ではせいぜい目頭を熱くするところまでで、涙を流すところまでには至りませんでした。名作と言われる『レ・ミゼラブル』や『モンテ・クリスト伯』は主人公のジャンバル・ジャンやエドモン・ダンテス(モンテ・クリスト伯)が大活躍するのですが、可哀そうという感情を持つことはありますが感動して目頭が熱くなるということはありませんでした。また教養小説と言われる『人間の絆』や『緑のハインリヒ』にもそういう場面はありませんでした。私が知っている小説家の中では、ディケンズがそういった小説をたくさん書いていると思います。『骨董屋』のヒロインネルは余りに気の毒で当時のディケンズの小説の愛読者の涙を誘ったと言われますが、私はそれほど悲しい気持ちにはなりませんでした。こういう救いのない悲しさは私には苦手の様です。むしろ「グレン・ミラー物語」の主人公は亡くなったが彼の音楽は生き続けるという感動や「五つの銅貨」の娘に辛い思いをさせたことを悔いて音楽を断って一所懸命肉体労働をする主人公のひたむきな態度に惹かれ目頭が熱くなります。ディケンズの小説で感動的な場面のある作品は4つあります。まずあげられるのは『デイヴィッド・コパフィールド』です。幼少の主人公が一大決心をして大叔母のところに行くところや乳母ペゴティの夫バーキスの死には感動を伴います。また『荒涼館』ではジョン・ジャーンディスが、『リトル・ドリット』ではマーシャルシー監獄の門番がヒロインの幸せを願って行動するところに感動します。でも何と言っても『大いなる遺産』の主人公ピップとジョーとの友情は読後心のどこかに留まって世の中にはジョーのように心底困っている時に助けてくれる友人がいるんだなと思わせてくれます。この小説を読むことで心の中に信頼できる友人が出来たような気持ちになります。そうしてジョーが出てくる場面を読むと温かい気持ちになるので、また『大いなる遺産」を読もうという気持ちにさせるのです。エイベル・マグウィッチに対してピップはよい感情を持ちませんが読者はマグウィッチがいつまでもピップに好意を持つところは好感を持ちます。もしかしたらマグウィッチのような人物が現れて、恵まれていない人生に光を与えてくれるのではと思わせます。そういうことで私は翻訳がいくつかある『大いなる遺産』を合計9回読んでいます。そんなことを考えながら、母校立命館大学の西側広場で味噌カツ弁当を食べているとN先生が和風ハンバーグ弁当を持って向かいに座りました。
「君がここの弁当が美味しいと言うからぼくもここでよく食事を取るんだ。それにしてもディケンズの小説は感動的な場面がよく出て来るね」
なぜ今私が考えていたことがわかったのか訝りましたが、何も言いませんでした。
「ぼくは『リトル・ドリット』の最後のところでダニエル・ドイスがアーサー・クレナムと共同経営しようと持ち掛けるところに胸が熱くなるんだが、君は前から『大いなる遺産』のそこここにあるハーバート・ポケットとの友情の場面やマグウィッチやジョーの出てくる場面に感動のしっぱなしのようだね」
「そうですね、何か感動的なものが読みたいなと思うと『大いなる遺産』を読んでしまいます。いつでも力づけてくれる生涯の友という感じです」
「ところで君は昨日ヘッセの『湖畔のアトリエ』を読み終えたようだが、どうだった」
「その前に読んだヘッセの『荒野のおおかみ』と同様に厳しい批評をせざるを得ないですね。どちらも早々と新潮文庫で読めなくなったというのがわかる気がします」
「どんなところが、いけなかったのかな」
「それより先におおまかな物語の内容について話したいと思います。ロスハルデでアトリエを構えて画業に励むヨハン・フェラグートには同居する家族があるが、妻や離れて暮らす高校生?のアルベルトととはしっくりいっていない。次男の幼いピエールだけが親しい家族と言える。そんなヨハンのところに昔からの友人のオットー・ブルクハルトが訪ねて来る。オットーは帰省していたアルベルトや妻とうまく行っていないのを見て、一度ロスハルデを離れて世界を旅行してみないかと勧める。ヨハンは妻やアルベルトとうまく行かないと思っていたが、ピエールを溺愛していたため決心がつかなかった。ところがある日ピエールがネズミの子を弄んだのがいけなかったのか、夏の日の中に長時間いたのがいけなかったのか、脳膜炎(髄膜炎)になってしまう。ピエールの病状がはっきりしなかったため医師にかかるのが遅くなり、ピエールはだんだん衰えやがて辛い別れがやって来ます」
「幼い息子を亡くしたヨハンはさぞ辛かったことだろう。しばらくはロスハルデに留まってあちこち息子ピエールの面影を辿ったのだろう」
「いいえ、そうではないのです。このヨハンという主人公はドライな人で、ピエールが亡くなるとすぐに友人のオットーに連絡を取って、一緒にインドに行こうと伝える。妻のアデーレとの離婚はインドから帰ってからでも遅くないと考えているようです」
「それらのヨハンの行動を見ると普段から妻や長男に対しての愛情は欠落していてピエールが亡くなって愛する対象がなくなり、ヨハンはまるで穴が開いた風船のように猛烈な勢いでロスハルデから旅立つことになったようだ」
「そうですまったく未練を残さずに長年愛した土地もアトリエも彼を留めることなく、アデーレやアルベルトに対しての愛情も消失して、友人のオットーとの旅行を楽しみにするのです。そうしてそれが「にがく、青春の甘いたそがれに別れを告げただろう。今彼は貧しく立ち遅れて、明るい日の中に立った」となっていて、まるで今までが不幸でこれからは幸せ(明るい日)が続くのだと主人公は思っているみたいです。私にはこういったさばさばした相手の人の感情を考えない人にはついて行けないのです」
「でも人生のどこがの時点ではそういった割り切った考えも必要じゃないのかな」
「それはビジネスではあることですが、濃厚な人間関係、特に家族との関係ではそんなことはあってはならないと思うのです。好きな家族が早世したから他の家族を見捨てて友人とインドに行って新しい人生を始めるのだというのはありうることかもしれませんが、やってはならない、少なくとも小説で書いてはならない話だと思うのです」
「まあ、そんな甘いことを言っているから、君は一生出世できなかった。でも君はこれからもそれを続けるんだろう」
「そうですね、他の生き方だとお尻がむずむずして居心地が悪いですから」