プチ小説「こんにちは、N先生 89」

私は一昨年の年末に、もう一通り(ディケンズの一部の小説は何度も読んでいて、これからも折に触れて読もうと思っていますが)西洋文学の読みたいものは読んだから、前から読みたかった松本清張氏の小説を読もうと思ったのでした。『ゼロの焦点』『Dの複合』『眼の壁』『時間の習俗』を読んでとても面白かったので、新潮文庫の6冊の短編集『或る「小倉日記」伝』『黒地の絵』『西郷札』『佐渡流人行』『張込み』『駅路』を次に読みました。『西郷札』『佐渡流人行』は時代小説でわかりやすい歴史解説も出て来るので推理小説を読むだけではもったいないなと思いました。そんな感じですっかり松本清張氏のファンになった私は低価格で購入できることをいいことに西洋文学と並行して松本氏の小説を読むようになりました。私の鞄には西洋文学の読みかけの本と松本清張氏の読みかけの本がいつも入っているようになりました。出来る限り読んでみたいと思いますが、まだ3分の1も読んでいないのでいつ読み終えれるのかと思います。そんなこともあって、ディケンズ・フェロウシップの総会が福岡で開催されることが決まった時に翌日は小倉まで足を伸ばして北九州市立松本清張記念館に行こうと思いました。6月9日の午後2時前に小倉駅に着いた私は、まず駅構内の近辺地図を見ました。それを見ると記念館は小倉城の裏側にあり、まずは小倉城を目指すことにしました。徒歩で30分ほどのところにあり、落ち着いた感じの黒を基調とした2階建て(地下1階)の建物でした。彼の生涯、彼の作品、仕事場(書斎)などの展示があり、彼の代表作『砂の器』の名場面のビデオがずっと流されていました。映画の上映もありましたが、知らない作品でした。彼の書斎が再現されガラスで囲われた展示があり、その中を一所懸命見ている千鳥格子の背広を着た男性がいました。それはN先生でした。先生は私に気付くと言われました。
「レコードプレーヤーやアナログレコードがないか探すんだが、見当たらない。清張さんはながらでは書かなかったんだろうか」
「そうですね、あらえびす(野村胡堂)さんのようなレコード収集家ではもちろんありませんし、レコードや音楽について書かれているのを見たことはありません。趣味は写真を撮ることのようで、ニコンF3をカスタマイズしたものを愛用されていたようですよ。さっき展示されているのを見ました。あちこち撮影旅行に行かれているようです。静かな環境の中で集中して文章を書き、余暇は旅行をして写真を撮られていたのではないかと思います。レコードはどれを掛けようか悩む、30分程で裏返すか別のレコードに取り替える作業をする時間が必要でまとまって原稿を書くときには大きなロスになります。心地よい音楽に浸りながら腰を据えて文章を書くのなら役に立つのかもしれませんが、流行作家になると有線で好きな音楽を流し続ける方が効率的ですしそれに文章を書くのに専念できるからいいのかもしれません」
「そうだね、レコードを取り替える時にいったん書く作業が途切れるから、また執筆のモードに入るまで何度もエンジンをかけないといけなくなるね。ところで君は『犯罪の回送』を読み終えたようだが、どうだった」
「解説にもありますが、この小説が完成された最後の小説(1962年から1963年に連載していた『対曲線』という小説を最晩年に改稿し1992年に出版された)のようです。松本清張氏は1989年に亡くなられていますが、73ページに「新幹線で北海道に帰る」との記載があり、改稿時には東北新幹線が開業(1982年 2016年には函館北斗駅が開業)していたんだと思いました。この当時は青森から北海道内へは在来線の特急を利用したと思います」
「君は『黄色い風土』や『十万分の一の偶然』や『球形の荒野』が好きのようだが、この小説はどうだった」
「先生があげられた3つの小説には際立つ登場人物がいて楽しめるのですが、この小説の主役の田代警部は冷静に証拠を積み重ねて犯人のトリックを暴いて行きます。2人の部下に指示して証拠を採取し警視庁、北海道警と連携して解決に導いて行きます。こうした地道な仕事の積み重ねが悪事を暴くのでしょうが、最後のところで田代警部が部下二人と証拠を集めて行くところは彼の謎解きばかりで余りにも地味ですし事件以外のことにほとんど触れないので物足りない気がします。田代警部は貫禄があってとても30半ばの感じがしません」
「最後の作品になったし執筆の時間がなかったから、推理のところをなるべく充実させたかったのかもしれない。でも、内容は面白かったんだろ」
「推理小説は犯罪小説(クライムノベル)とも呼ばれ、人が何らかの迷惑行為に遭い第三者(主に警察)がその悪事を暴いて行くというのが王道だと思うのですが、私が好きなユーモア小説とはえらい違いで決して心が豊かになるということはありません。このカテゴリーの小説ばかり読むのは身体によくないと思います。なので大きな悪事を働く登場人物が悪知恵で逃れる小説というのはどうかと思います。この小説は悪事を働いたペアが市長の仇敵と言える市会議員に罪をかぶせるというストーリーですが、この市会議員がそれ以前に市長の前妻とやましいことをしていてペアから脅迫されてグルにならざるを得なくなったというのがミソです。そのため市会議員は犯罪に使うために車を買ったり、日本酒のセールスをしたりします。そうして最後は自殺に見せ掛けて殺されるのですが、市会議員は犯人の男に弄ばれて本当に気の毒です」
「身長160センチ、体重50キロの署員を入れて実験したように日本酒の四斗樽に死体を入れて運搬したようだが、出し入れや運送屋が運搬する時によく露見することがなかったなあと思うね」
「まあそれは松本氏の読者を喜ばせるための最後の大サービスだったのだと思います。解説を書いた人が清張作品がある限り退屈することはないと書いているのは、その通りだと思います」
「でも君は清張作品のような読みやすい小説ばかりを読んでいてはいけないと思うな」