プチ小説「孟夏に」
石井と祥子が北海道に住んでから、30年余りが経過していた。移り住んだ当初は気候変動の影響を受けることもなくひたすら畜産の仕事に従事していたが、昨今の猛暑や豪雨は他人事のように思えず気になっていた。また跡継ぎがいないことも不安材料だった。二人が60才を超えた頃から友人たちの来訪も少なくなり、毎年やって来た親戚も来なくなった。二人とも元気で、石井は80才を過ぎたら引継ぎを考えると言っていたがそれまで10年余りあった。ある日、祥子が体調の不良を訴えたので近くの病院に行ったが、暑気あたりで特に問題はないとのことだった。病院から帰りのバスの中で石井は笑顔で祥子に話し掛けた。
「どうなることかと心配したけど、大したことがないと言われてほっとしたよ」
「そうね。わたしも。でも」
「でもなんだい。心配事があるのかな」
「あるわ。いっぱい」
「そうなんだね。仕事が忙しいと言って、あまり祥子さんの話を聞かなかったことを反省している。ぼくたちがここに来てから最近までは大きな変化はなかったけれど、テレビなんかで報道されているように、気候変動、マンパワー不足、過疎化、少子化の影響を受けて平穏な生活が覆ることも充分ありうる。数年前まではそんなことはちっとも考えなかったけど」
「それもそうなんだけど。私、近くのスーパーがなくなったのが...」
「そうか、じゃあ、自給自足と行くか。もうちょっと畑を大きくしてジャガイモやトウモロコシを作るか」
「とても有難いけど、やっぱりお惣菜があるとないとでは。いちから全部作らないといけないとなると大変なの」
「スーパーの近くまで行っていたバスが2年前に廃線になったから、スーパーに行く人が減ったみたいだね。これからは倍の道のりのスーパーまで行かないといけない。週に2、3回行けるかな」
「私、北海道に来て10年間は仕事を覚えるのに一所懸命だったから、あっという間に過ぎたわ。それから20年間は石井さんがとてもやさしくしてくれるから毎日が幸せだった。でも」
「でも今はそうでもない」
石井はすばやく笑顔で言葉を差し挟んだが、祥子は話を続けた。
「でも最近は驚くことが多くて、幸せを実感することが少なくなったの」
「過疎化のことだね」
「そうそれも原因のひとつだわ。それに気候変動もあるわ。北海道は大雨の恐れはないし、本州の雪の多いところほどの降雪はないと思うけれどテレビで豪雨や豪雪のニュースを見ると、うちは大丈夫かなと思ってしまう。畜産の仕事は楽しくてすばらしい仕事をしていると思うけど」
「思うけどいつまでも続けられるか心配なんだ」
バスが石井の家の近くの停留所に停まったので、ふたりはバスを下りた。
「このバスも近くなくなるみたいだわ。私たちは今まで健康だったから、病院に行くことはなかったけど。年に1回くらいは健康診断を受けた方がいいかもしれないわ」
「そうだね、来月、ふたりで申し込みに行こうか。それも含めてこれから先のことをぼちぼち考えようか」
「でも急に仕事をやめたりはしないんでしょ」
「そりゃあ、うちには貯えがたくさんあるわけでないし。事業は引き継いだ後とほとんど変わらない。近所との付き合いもそこそこだ。建物が老朽化しないよう気を付けてはいるが、設備を一新する予定はない。......。おや、お隣の奥さんが家の前にいるぞ」
ふたりが隣の家の家人に近寄ると家人は言った。
「あんたらのところで働いとる人が奥さんが病院に行ったと言うたもんで、ちょっと作ったんよ」
そう言って、奥さんは鍋の蓋を開けて肉じゃがを見せた。
「あんたらに黙っとったけど私の料理は家族に大評判なのよ。食べてもらえるかしら」
石井は意外な申し出に戸惑っていたが、祥子は素早く反応して奥さんを家の中に入れた。
「ありがとうございます。喜んでいただきます。今からお皿を持って来ますから」
「ほほほ、そんなに急がなくても。家には鍋がたくさんあるのよ。明日にでも返してくれたらいいわ。じゃあ、また元気になってね。あなたが元気で一所懸命頑張っているところを見せて頂戴。華奢なあなたが動きまわって、走りまわって仕事をするのを見るのが私は大好きなの。これからもあなたが元気に働くところを見せて頂戴ね」
「はい、わかりました」
奥さんが帰ると石井は祥子に呟いた」
「いろいろ不安なことが出現するけど、楽しみなことも起きるかもしれない。祥子さんが元気で仕事が順調なら2、30年は頑張れるんじゃないか」
「そうね、でも不安なことは先手を打って取り除いておくのがいいわ。来週にでも病院に行きましょう」
「そうだね、そうしよう」
※ この小説は、短編小説「盛夏に」、プチ小説「夏の終わりに」の続編です。