プチ小説「こんにちは、N先生91」
私は汗かきで肥満ぎみなため夏に着る服にはいつも苦労します。最近はコンビニで購入した高価なアンダーシャツと紺色のポロシャツを毎日のように来ています。シャツは2、3日着るとクリーニングに出さないといけなくなる(小型の洗濯機なので洗ったシャツがしわしわになります)ので、引退後はカッターシャツなどはなるべく着ないようにしています。そんな恰好で母校の校内を歩ていると、千鳥格子の背広姿の紳士が扇子を扇ぎながら歩いているのが見えました。それはN先生でした。先生は西側広場にある都銀のATMで用事を済ませると私に声を掛けられました。
「毎日暑いね。7月に入ってからいっぺんに暑くなった。へばっていないかな」
「それは大丈夫ですが、先生はいつも上着を着ておられますが、暑くないですか」
「ぼくらの世代は真夏でも上着を着るのが当たり前なんだ。礼を失することもあるからね。その点君の場合は上に気を遣はなくてもいいから、気楽でいいね」
「さあ、どうでしょうか。ネクタイをしなくなって2年程になりますが、万一なんかで有名になって公式の場に毎日出るようになりネクタイ、上着を身に着けなければならなくなると窮屈で我慢できないかもしれません。日頃、野生児のような生活をしているとますます以前のような日常生活が遠ざかって行くような感じで何とかしないといけないと思います」
「何とかって何をするのかな」
「用もないのにスーツを着てネクタイを締めて大阪市内を空調がきいていない場所をうろうろするのは難しいです。やはり何かの目的がないと空調のある所には入られないので、普段はラフな格好でぶらぶらすることになります。こういう生活をしているとオンとオフの生活の区別がなくなり刺激もありません。やがて外出も億劫になるといよいよ終活になるのかと落ち込んでしまいます」
「でもそう思うんだったら、スーツは無理でもカジュアルの会社通いでも通用するような恰好をすればいいんじゃないかな」
「お金があればそれも可能ですが、今の切り詰めた生活では難しいです。今の生活を脱却するには懸賞小説で賞を取ることしかないと思います」
「ディケンズの『荒涼館』に出て来るリチャード・カーストーンみたいだね。小説を書くことに専念すると言って、なかなか成果が上がらないので焦りが出始めたのかな。君の場合は期限があるわけではないんだから、慌てることはないと思うけど」
「そうかもしれません。でもなるべく早く一花咲かせたい気持ちは常にあります。受賞は目標ですがそれで終わりではなく、それが出来たら次の目標があります」
「まあ、そういう気持ちがあれば人生に失望することはないだろう。だけど君がさっき読み終えた『ハード・タイムズ』はそういう希望が持てない人ばかりが登場人物だと思わないか」
「そうですね、きっと才能があったからバウンダビーは成功したんだと思うのですが、紛いものでした。30才も年が離れた親友の娘を嫁にもらい楽しい生活が始まると思ったのですが、妻に嫌われてしまいます」
「その妻つまりルイーザには弟がいるが最後は銀行強盗をして罪をブラックプールに擦り付ける不良で最後は海外に逃亡する。この二人の父親(トマス・グラッドグラインド)は事実がすべてで、空想を一切禁じる偏った考えの人間で部下のマッチョ―カムチャイルドを使ってコークタウンの人々に「功利主義」の考えを浸透させる。最後のところで自分がやっていたことが間違っていたことに気付いて後悔する」
「バウンダビーは妻に嫌われるだけでなく強気でやって来たことがすべて間違いだったのですが、彼はそのことを認めようとせず周りの人に迷惑を掛けています。物語の途中で銀行強盗のことを知っているブラックプールの失踪と彼の恋人レイチェルによる捜索ははらはらさせるところがありますが、ブラックプールが亡くなることでふたりの恋愛が成就する可能性はなくなります。このように主な登場人物が演じたことを見直すとどの登場人物も喜びがほとんどなく、悲しみ、怒り、後悔だけだったように思います。そう言う意味ではこの小説には主役、主人公、ヒーロー、ヒロインは存在しなかったとも言えるんじゃないでしょうか」
「そうかな、バウンダビーのところで働く家政婦のスパーシット夫人はずっと元気でバウンダビーに解雇されるが意気消沈することはない。第2部の第10章と第11章ではルイーザの心を奪おうとするハートハウスの企みを挫こうと奔走している。主役は無理としても物語の中で重要、いや矢鱈目立つ女性というのは間違いない」
そうですね、その通りだと思いますが、それほど物語を通して活躍する人物がいない小説と言えると思います」