高校時代はナターシャセブンに夢中でした(これはプチ小説ではありません)
8月20日の日本経済新聞の朝刊に高石ともやさんが8月17日に亡くなられたとの訃報が掲載されていました。高石さんは昨年か今年にKBS京都ラジオに出演されておられて私はそれを聞きまだまだ頑張られるのだなと安心していたので、この記事を見てとても残念に思いました。高石さんの張りのある明るい声を聞くと、高石さんが近畿放送(当時)の日本列島ズバリリクエスト(以下ズバリク)に出演されていた頃(1976年)のことを懐かしく思い出すからです。
高校時代私は写真部に所属していましたが、1年生の時の文化祭を終え久しぶりに深夜放送を聞こうかとラジオのダイヤルを回していたところナターシャセブンが歌っているのを聞いたのです(50年前のことなので、違っているかもしれません)。生演奏で4人のメンバーがそれぞれ楽器を演奏しながら綺麗なハーモニーを聞かせるのを聞いて、1本のマイクで楽団をバックに歌謡曲を歌うのばかりを聞いていた私にとっては彼らの演奏はとても新鮮で親しみが持てるものでした。特に番組のオープニングでは高石さんが曲にまつわるエピソードを語られその後に歌われたので、ジーンと心に沁みることがあったりユーモラスな話に心が温められたりしました。
ナターシャセブンの音楽が素晴らしいのは高石さんが作られた曲だけでなく、アメリカのフォークソング、ブルーグラス、世界の歌それから中津川、恵那を中心にコンサート活動されていた笠木透さん作詞(訳詞もあります)の曲(「私に人生と言えるものがあるなら」「私の子供達へ」「川のほとり」「海に向って」「おいで一緒に」「わが大地のうた」「君かげ草」「めぐりあい」など)をベストの即興の編曲で演奏を聞けることでした。
特にマルチプレーヤーの木田たかすけさんがメンバーに加わってからはベース以外にもピアノ、ドラムス、トランペット、フルート、サックスなどが彩を添えました。木田さんがナターシャセブンのメンバーになったのは1975年ということですから加入されてしばらくしてナターシャセブンのサウンドが出来上がった時に私が聞くようになったことになります。出来の悪い高校生でしたが、午後11時から午前2時まで毎週水曜日と木曜日のズバリクすべてを聴取するわけに行かない(遅くまで寝ないで聞いていると授業を受けるどころではありません)ので午前0時まで聞くのがほとんどで、祝日で翌日が休みのときだけ最後まで聞いていました。そうは言っても60分テープ8巻分を録音して何度も聞いていたので、勉強もせずにナターシャセブンの音楽にどっぷりとつかっていた高校時代だったと言えると思います。そんな高校生に強い影響力のある深夜放送が1976年9月末で突然終わってしまったのは驚きでした。全国でコンサートを開くからとか107ソングブック(ナターシャセブンの音楽の楽譜集)のレコードを録音するからという理由でしたが、京都で当時物凄い人気があったナターシャセブンが活動の方法を変えるのはおかしいなと思ったものでした。それでも宵々山コンサート、昼下がりコンサート、、サンケイホールでのコンサートはその後も開かれて、私も何度か足を運びました。
ナターシャセブンの番組がなくなったこともあり、彼らの音楽はレコードで聞いて行こうと決めて1977年の昼下がりコンサートを最後にナターシャセブンの音楽は封印することにして録音したテープも押し入れに入れました。そうして長い浪人時代はナターシャセブンの音楽はほとんど聞かなかったのですが、1980年に木田たかすけさんが自動車事故で亡くなられてすぐのコンサートが京都府の大山崎町の公的施設(公民館だったと思うのですが)であった時は聞きに行きました。内容がどうだったかは全然覚えていませんが、弦楽器ばっかりで彩に欠けるなと思ったものでした。その後城田さんが1983年に脱退され、坂庭さんが1984年に脱退され、1985年にはナターシャセブンは活動停止になります。1998年に3人で復活のコンサートをサンケイホールで開催され私も足を運びましたが、笠木透さんが作詞された曲がまったく演奏されず耳馴染みのない曲ばかりで残念に思ったことを覚えています。2002年まで毎年同様のコンサートが行われていたようですが、2003年坂庭さんが病で亡くなられます。そうして先日高石さんも亡くなられました。
私はたまたま笠木透さんが出されたCD(笠木透作品集)とフィールドフォークvol.1と同vol.2と同vol3を8月18日に聞いていたので、俺が楽しそうに歌っているところをもう一度聞いてくれと天国に行かれた高石さんが私に仄めかされそれで私は久しぶりに高石さんのレコードを聞いたのだと確信しています。聞き直してみて、やはり高石さんの本領が発揮されたのはオリジナル曲ではなく、笠木透さんが作詞された「私に人生と言えるものがあるなら」「私の子供達へ」「川のほとり」そして慶応大学の学生さんが作詞作曲されたと言われる「思い出の赤いヤッケ」を会場の人たちと一体となって歌われる時だったと思いました。これからは京都五山の送り火が終わってすぐに高校時代にあったことを思い出しながら107ソングブックのレコード(ただし、「ハンぷティダンぷティ マザーグース編すべてと道 世界のうた編の「娘の便り」は聞かないと思います)を聴こうかと思っています。それがたくさんの楽しみを私に与えて下さった高石さんへのお礼になると信じて。