プチ小説「いちびりのおっさんのぷち話 「川のほとり」は諸口さんもよく歌ってました編」
8月17日にフォーク歌手の高石ともやさんが亡くなった。わしは船場と同じように1975年秋頃からのファンやから、とても悲しい気持ちや。高校時代に熱中することがほとんどなかったわしにとって、ナターシャセブンの歌声は心のよりどころやった。なんかのめり込めるもんはないかと思うてた高校生のわしはある日、近畿放送(当時 現KBS京都)の深夜放送(日本列島ズバリリクエスト(通称ズバリク))で高石ともやさんが歌う「この街が好きさ、君の微笑みあるから」ちゅーのを聞いた。わしも当時は女の子に興味を持っとったから、この歌詞は心に共鳴してこんな素敵な歌詞を考え出すフォーク歌手は他にもええ歌っとるんやろなと思うたもんやった。ほんで船場と同じように夜遅くまでズバリクを聞いたんや。ナターシャセブンのオリジナル曲(高石ともや、高石とし子((ともやさんの妹)が作詞、訳詞したものとする)として「春を待つ少女」「街」(高石ともや作詞、作曲(正確に言うと「街」は木田たかすけさんと一緒に作曲))、「明日になればね」「谷間の虹」(高石とし子作詞、作曲)は大好きやったけど、調べてみるとナターシャセブンの音楽は多岐にわたっとって、アメリカのフォークソングを日本語に置き換えて歌ったもの「私を待つ人がいる」「今宵恋に泣く」「柳の木の下に」「あなた恋しています」「別れの恋歌」「丘の上の校舎」「ひとり旅」「陽気に行こう」「わらぶきの屋根」「森かげの花」「どこにいればいいんだろう」「海の嵐」「はじめて来た街」「十字架に帰ろう」「天国の岸辺」「日高の山」「さよならが言えない」「ふるさとの風」「きれいな娘さん」「夜明けを待ちながら」「フレイト・トレイン」「コリーナ・コリーナ」「疲れた靴」「陽のあたる道」(以上高石ともや訳詞)、愛知、岐阜で活躍していた笠木透さんが主催していた音楽祭で歌われた音楽(後述)、独特なアレンジをした日本の民謡「ほっちょせ節」なんかも歌っとった。なかでも笠木透さんが作詞、訳詞した曲は秀逸やった。「私の子供達」(作詞作曲)「めぐりあい」「わが大地のうた」「川のほとり」「君かげ草」「(以上作詞)「私に人生と言えるものがあるなら」「海に向って」「おいで一緒に」「(以上訳詞)は高石さんがステージで歌うと聴衆が一体になって盛り上がったもんやった。オリジナルソングはじっくり聞かせる感じやったが、笠木さんが作詞した歌は会場を温かいムードをもたらしたもんやった。そんな大人気やったズバリクがなぜか1976年9月で終わったのは、えーっ、なんでやのと叫びたいところやった。わしは9月初めのズバリクの放送でそれを聞いて、布団の中に向けて、なんでやのーーーーんと3回叫んでしまったんやった。わしがそんなんやったから、もっと熱狂的なファンの高校生は、最終回の放送を聞いて涙が止まらんかったのやないかと思う。それでもナターシャセブンが、その後もコンサート活動は続ける、3ヶ月に1枚ずつ107ソングブック(ナターシャセブンの持ち歌の楽譜集)の歌のレコードを発売するということを聞いてちょびっとだけ安心したもんやった。北海道から九州まで地方でたくさんのコンサートを開催したようやけど、関西では春の昼下がりコンサート、夏の宵々山コンサート、、年末のサンケイホールでのコンサートだけやった。わしは昼下がりコンサートとサンケイホールでのコンサートに行ったけど「私に人生と言えるものがあるなら」「私の子供達」「川のほとり」をみんなで歌ったのをよう覚えとる。わしは働くようになってからはナターシャセブンの音楽はあまり聞かんようになったし、コンサートも行かんようになった。一時期永六輔さんとNHKテレビに出てたけどチャンネル争いで負けて見れんかった。やっぱり当時テレビはラジオと違うて一家に一台やったから、我慢して父親が見るナイター中継を一緒に見とった。船場は全盛時代のナターシャセブンの中心的な存在やった木田たかすけさんや高石さんの大きな支えやった榊原詩朗さんが亡くならはってからもたまにコンサートに行っとったみたいや。木田たかすけさんがおらんようになってからのことは船場から教えてもらお。おーい、船場ーっ、おるかー。はいはい、私もにいさんと同様。高校時代はナターシャセブンに心酔しました。彼らの素朴でわかりやすいのに深く心に染み渡る音楽は影響を受けやすい高校生にとってはこの上ない素敵な贈り物だったのです。ラジオをつけてダイヤルを合わせれば毎週水曜日と木曜日の深夜に聞けたのですから、私を含め当時の近畿放送を聞くことができた高校生は翌日の授業のことを考えないで遅くまで放送を聞いたのだと思います。私でさえ、平日に遅くまで聞いて翌日の授業に影響があったのを覚えているくらいですから、私以上にナターシャセブンの音楽に夢中になった高校生は学業に大きな影響があったことは充分に想像されます。するとあんたは、それで何か圧力がかかってナターシャセブンの放送がなくなったと言うんか。放送を聞くだけでしたら深夜に忍び笑いをするくらいですから、問題はありません。でも彼らは素敵な音楽も提供したのですから、それを録音して何度も聞いた人もあるでしょうし、素朴な音楽を真似して楽器を演奏したいとか歌いたいと思ったことでしょう。私もクラブの後輩の勧めで107ソングブックを購入したものですから、いつか演奏を最後までできるようになりたいと家にあるオルガンや縦笛やハーモニカで旋律の一部を奏でたものでした。そうして木田さんが脱退してその後に交通事故で亡くなられるまでは、私も心酔して彼らのレコードを聞いたり、コンサートに行ったりしたものでした。ところが木田さんと榊原さんの2人がいなくなってから彼らの音楽は変わってしまいました。木田さんはマルチプレーヤーで編曲も多彩でした。コンサートでもベースだけでなく、ピアノ、ドラムス、トランペット、フルート、サックス、パーカッションなどを演奏するところを見たことがあります。ギター、バンジョー、フラットマンドリン中心のナターシャセブンの音楽に彩を添えていました。ただ一途な男っぽい音楽が温かい華やかな男女問わず楽しめる音楽になっていました。また榊原さんは裏方で高石さんを支え多分笠木さんと高石さんがうまく行くように骨を折っていたと思います。榊原さんがなくなってからナターシャセブンがほとんど笠木さんの歌を歌わなくなったのは、契約上の問題があって今まで通り思いっ切り会場の人たちと一緒に「私に人生と言えるものがあるなら」「私の子供達」なんかが歌えなくなった。それは仲を取り持つ人がなくなってしまったからではないかと思います。ナターシャセブンの音楽が会場で盛り上がったのは笠木透さんが作詞した音楽があったからということは誰に訊いても、そりゃー、そうだよと言われると思います。これは私個人の感想ですが、「春を待つ少女」「明日になればね」「街」は何度か聞いて口ずさめますが、「私に人生と言えるものがあるなら」「私の子供達」「川のほとり」はすぐに一体になれます。そのすごい効果を知っていた諸口あきらさん(ズバリク金曜日と土曜日を担当)は「川のほとり」を自分のレパートリーにしていました。その大切なレパートリーを演奏項目から外さざるを得なくなったのは大きな喪失となったのだと思います。その後、1998年にナターシャセブンが復活して、私はサンケイホールに高石さん、城田さん、坂庭さんを見に行きました。私の思い違いでなければ、笠木透さんの曲は一曲も歌われず、ナターシャセブンのオリジナル、城田さん、坂庭さんがそれぞれのグループで歌われている曲だけだったと思います。「私に人生と言えるものがあるなら」を高石さんか城田さんが歌われて、会場が一体になると言うのはなかったと思います。それで物足りない思いを家に持ち帰った記憶があります。その後、この3人でのコンサートは2002年まで続きましたが、2003年に坂庭さんが亡くなられて、彼らの得意だったブルーグラスの演奏も出来なくなりました。その後2014年には笠木透さんが亡くなられ、高石さんの演奏を聞く機会もなくなりました。でも昨年だったか、高石さんがKBS京都のラジオ番組に出演されて山崎弘士アナと話されているのを聞いた時にはまた高石さんの生の歌声をラジオで聞けるのではと大いなる期待をしたのですが、8月19日の朝刊で高石さんが亡くなったことを知りとても残念で悲しく思ったのでした。といっても彼らはたくさんのレコードを残しているので、高石さんの温かい心のこもった音楽が聞きたくなったらそれを聞けばいいんですから、それ以上は欲張りはしません。そやけど当時の放送のオープニングを編集してCDで売り出したら、あんた全部買うつもりなんやろ。もちろんそうなりますが、当時の放送のテープが保管されているのかどうかわかりません。われわれとしたら、高校時代にタイムスリップできるというこの上ない喜びが与えられるのですからKBS京都に毎晩手を合わせて、よろしくお願いしますとお祈りするしかないですね。よし、そうと決まったら今晩から必ず手を合わすんやで。わかりました。