プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生59」
翌朝、小川は会社に行く前に和室にいるアユミを訪ねた。秋子から、アユミが 朝食を食べたくないと
言っていると聞いたからだ。アユミは着替えて新聞を読んでいたが、小川が声を掛けると小川の顔に
穴が空く程睨みつけた。小川は一瞬退ったまま入口のドアを開けて外に出ようとしたが、後ろにいる
秋子に気が付いて、なんとか笑顔でアユミに話し掛けた。
「せっかく、遠くから来てもらったのに不愉快な思いをさせて申し訳なかった。ぼくはアユミさんが
秋子のことを思ってくれてわざわざ来てくれているのに、それに対して感謝の気持ちを表していない。
どうだろう、今夜、どこかで宴を開かせてもらえないだろうか」
「ありがとう。でも、お酒が入ると、私は...」
「そんなことは、気にしなくていいよ。秋子も来てくれるだろ...」
「小川さん、どうしたの」
「楽しいお酒で良かったけれど、身体は正直だね。アユミさんが笑顔で平手打ちした背中が痣だらけだ。
ご主人はいつもこれ以上の衝撃を受けているんだろうが、ぼくなら、1週間ももたないだろう。
アユミさんが、風呂から出て来たら言うけど、今後はアユミさんだけに来てもらって、家に泊まって
もらうことにしよう」
「そうね。でも、ほんとによかった」
その夜もディケンズ先生は夢に出て来たが、歌を口ずさんでいた。しばらく小川はディケンズ先生の歌を
聞いていた。
「娘が街角でスカーフを振っていた。それはひらひら舞う雪のよう。そいつは兄貴のためさ、ボッフィンさん。
娘は無事を祈ったが、兵士の兄の耳には届かず、剣を抱いて立ち尽くすだけ。涙ほろほろぬぐうばかり、ボッフィンさん。
この歌を知っているかい、小川君」
「それは、「我らが共通の友(互いの友)」第5章でサイラス・ウェッグが歌う、バラッド(はやり歌)ですね」
「そうさ、サイラス・ウェッグは悪役だが、どこか憎めないやつだろ。ユライア・ヒープみたいで。
「バーナビー・ラッジ」のヒューや「マーティン・チャズルウィット」のジョーナス・チャズルウィットのような
平気で暴力を振るうようなやつじゃない。この類いの悪役としてこの小説では...」
「先生、あまり先のことを話されると楽しみが...」
「おお、そうだったね。まあ、でもサイラス・ウェッグの動向は重要なサブストーリーになっているから、
じっくり読むといいよ。それじゃあ、これからもアユミさんと上手くやって行きたまえ」
「もちろん、そのつもりです」