プチ小説「こんにちは、N先生 99」

私はここ2年ほど母校立命館大学図書館に週に3~4回行っていますが、空調完備でしかもいろいろなデスク(閲覧机)があるのでホームページを更新したり読書したり小説を書いたりして活用しています。しかも本の貸し出しができますから、今までホーソン『緋文字』(岩波文庫)、ブロッホ『夢遊の人々』(ちくま文庫)を借りて読みました。また貸し出しができなくても館内閲覧できる図書もあります。3週間ほど前に『オデュッセイア』(呉茂一訳 集英社世界文学全集1)を読み終えたので次は『イーリアス』(呉茂一訳 岩波文庫)を読み始めたのですが、『オデュッセイア』のようにひとつの小説ではなく、英雄叙事詩を集めたもの(時系列ではないようです)で始まりも終わりもないような気がして戸惑い読み進めるための手掛かりがないのかなと思いました。そう思っていたところ今から40年以上前にN先生が私に教えてくださったことを思い出しました。それは『イーリアス』で描かれるトロイ(トロイア イリオス)の滅亡の後で亡国の英雄アエネーアスが受難と苦悩の末にトゥルヌスを討ち倒しトロイではなくイタリアにローマ帝国の基礎を築くまでを叙事詩にしたのがウェルギリウスの『アエネーイス』(アエネーアスの物語)で、作者ウェルギリウスの亡くなる前数日間とその後の美しい心象風景を描いた小説がブロッホの『ウェルギリウスの死』だから、君も是非読むといいと言われたことでした。『ウェルギリウスの死』を読んだのはそれから30年余り経過してからでしたが、『アエネイス』はまだページをめくったこともありませんでした。大学の図書館で『アエネーイス』(泉井久之助訳 岩波文庫)が閲覧できることがわかった私は早速カウンターで申し込んで閲覧したのですが、詩のところは『イーリアス』同様でなかなか読みこなすのが難しそうでした。それでも泉井訳は24巻それぞれの最初のところに梗概(あらすじ)を付けられていて、それを読むだけで物語のだいたいのところを掴めることがわかりました。私は『こんにちは、ディケンズ先生』を2011年秋に出版してすぐにディケンズ・フェロウシップの会員となり京都大学で開催された秋季総会に出席したのですが、その時以来ディケンズ・フェロウシップのサイト(ホームページ)をしばしば利用してきました。特に梗概のところはディケンズの小説の詳細を知るために役立つので何度も何度も読みました。ディケンズ・フェロウシップの梗概と同様に泉井訳の梗概は『アエネーイス』を知るために役に立ちました。泉井訳『アエネーイス』の梗概だけを読み終えて図書館を出て立命館大学前のバス停に向っていると正門を出たところでN先生から声が掛かりました。
「君は『アエネーイス』の梗概だけを読み終えたようだが...」
「ああ、N先生、まだ『イーリアス』は読んでませんが」
「全部を読まないと駄目だよと言おうとしたんだ。物語全体を読まずにあらすじだけで済まそうというのは、3倍速でDVDの映画を見て鑑賞したことにするのと同じような気がする。そんなことをすれば音楽や俳優さんの仕草がわからないから映画の大切な部分を味わえない気がする。本も地道に最初から最後まで読むとあらすじだけでは触れることが出来ない本の核心を掴めるかもしれない。よしんばそれが無理でもその次に読む時のヒントを掴むことはできる」
「反省しています」
「いや、ぼくは君が『アエネーイス』の梗概だけを読んだことはいいことだと思っている。いろんな資料を集めて研究はするものだ。その中には梗概があってもいいと思う。だがいつかは全部を通して読んでほしいんだ。ところで君は『イーリアス』がわかりにくいと思っているようだがどんなところかな」
「あまり評価が高くない映画、ぼくは面白かったのですが、「トロイ」ではトロイの国王プリアモスの長兄ヘクトールと次男パリスがミュケーナイの王アガメムノンと平和条約を締結するところから始まりますが、その際アガメムノンの弟メネラオスの妻ヘレネーをパリスが誘惑してトロイに連れて帰ります。ここのところはパリスが強引に連れて帰ったという話もあって微妙です。アガメムノンが頼りにする勇者アキレウスとは仲が悪く、『イーリアス』の第1歌にそのことが書かれているのかもしれませんが、よくわかりませんでした。別の映画でヘクトールとアイアースが闘いヘクトールが勝利するところがありますが、『イーリアス』にはそれがあり「トロイ」にはそれがありません。「トロイ」でギリシア軍が退却を決めたと聞いてアキレウスの甥?のパトロクロスがアキレウスの鎧を着て活躍して、アキレウスと間違えたヘクトールに殺されたため、アキレウスは退却を止めて怒り心頭となってヘクトールと一騎打ちをすることになりますが、『イーリアス』ではパトロクロスは友人でアキレウスにギリシアを救うように頼んだが応じないためパトロクロスがアキレウスの鎧を着てアキレウスの仲間たちと活躍しますが、ヘクトールに討たれるとなっています」
「まあ、ちょっとちがうところがあるかな」
「そうしてアキレウスがパトロクロスの敵を討ってヘクトールを殺害して遺体を戦車の後ろに付けて引きずり回す。その夜、トロイの国王プリアモスがアキレウスのところにやって来て遺体の引き渡しを頼みます。アキレウスはプリアモスを労わって遺体を引き渡しプリアモスはトロイに戻ってヘクトールの葬儀をするところで『イーリアス』は終わるようです。映画「トロイ」ではこの後すぐにヘクトールが亡くなったが相変わらず難攻不落の城トロイをオデュッセウスが考案したトロイの木馬で急襲して壊滅させる場面もあります。しかも木馬にアキレウスが乗り込みます。懇意になった敵方のブリセイスを助け出すためでしたが、ブリセイスと一緒に行動していたパリスにアキレス腱を矢で刺されて亡くなります。他にもその前の場面でパリスとメネラオスの一騎打ちでパリスが殺されそうになりヘクトールがメネラオスを刺殺するシーンがあり、トロイの木馬にメネラオスが乗ったとされる説と矛盾するところがあります」
「君の場合はそういう辻褄が合わないところが気になるわけだ」
「それに「トロイ」ではブリセイスにアガメムノンも殺されてしまいます。これではクリュタイムネストラとの間の悲劇も成立しなくなります。大昔の話なので創作は自由なのかもしれませんが、面白くするためにとは言え重要人物が殺されてしまい辻褄が合わなくならないように慎重に物語を展開させる方がいいんじゃないのかなと思います」
「まあ、とにかく最後まで『イーリアス』を読んでから、そのあたりのことをまとめてみたらいい。でも概して言うなら、歴史は淡々と流れて行くものでオデュッセウスが考案したトロイの木馬で一夜にして王国が滅びるというのはなかなか起きないことだと思う。アキレウスがパリスの一撃でやられるというのも。アガメムノンもクリュタイムネストラが待ち受けるミュケーナイに戻れないのはその後のことを考えていないからおかしい。でも大昔のことだから自由な発想が許されるんじゃないかな」