プチ小説「こんにちは、N先生 103」

私は年末年始(12月26~1月6日)資金がないために寝正月でした。1月7日までは近所の神社にお参りに行ったのと買物以外は出掛けませんでした。そんなこともあって1月7日に大学図書館へ行くために阪急電車に乗ると心が弾みました。さあ、今年も頑張るぞという感じでした。いつも朝7時ちょうどに富田駅を出発する電車に乗るのですが、高槻市駅で準特急に乗り換えずに烏丸駅まで行きます。座れなくて困ることがありませんし、長岡天神までは空席がかなりあります。東向日でほぼシートが埋まり桂でかなり乗車しますが西院でかなりの人が下車します。最近東向日でかわいい女子高生が隣に掛けることが多いので少し期待したのですが、今日はN先生が東向日で乗車され私の隣に掛けられました。
「今日が君にとっての年始だね」
「ぼくは勤め人ではありませんから、気楽なものです。でも久しぶりに大学に行けるのでうれしいです」
「そうだね、何か目的があって出掛けるのは、ぶらぶらするのと大違いだ。規則正しい生活を続けることは生産し続けるのには必要だと思う」
「小説を書くことですね。確かに家では誘惑が多いですし、図書館の机では身が引き締まってここに座っている間は頑張ろうという気になります。往復約4時間の通学?時間は無駄のように思えますが、電車やバスに乗っている間は本を読んでいますしホリーズカフェでも本を読んでいますから」
「移動すると気分も変わるし景色も変わる、懐かしい友人に会うこともあるかもしれないから期待感も持てる」
「資金がある時は帰りに高槻市駅で下車して買物をして帰るのも楽しみですし」
「ところで今何を読んでいるのかな」
「昨年末に読んだシュテファン・ツヴァイクの『マゼラン』『エラスムスの勝利と悲劇』が面白かったので、今、『人類の星の時間』という短編集を読んでいます。ツヴァイクの小説の多くは評伝ですが、この本の短編もみな評伝小説です」
「面白いのがあったかい」
「まだ途中ですが、太平洋を発見したバルボアの評伝『不滅の中への逃亡』とヘンデルの評伝『ゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデルの復活』は興味深く読みました。『人類の星の時間』とは天才が現れてその後数十年、数百年影響し続ける決定をする瞬間のことでツヴァイクはその瞬間を劇的に描いています」
「バルボアは太平洋を発見した瞬間というのはわかるが、ヘンデルはいつなのかな」
「その前にヘンデルの生い立ちを少し話していいですか」
「いいよ」
「ヘンデルはヨハン・セバスティアン・バッハと同じ1685年にドイツのハレに生まれました。イタリアで活躍した後、イギリスに移住しましたが、バッハがドイツで宮廷音楽家としてまじめに地道にこつこつ音楽活動をしたのに対して、ヘンデルはイタリアで修業した後、1710年からはイギリスに渡って宮廷楽長の地位に着きます。1719年に設立された王室音楽アカデミーでオペラを上演して成功しますが、貴族オペラが設立された1730年代中頃から翳りが見え始めます。そうして1937年には経済的心身的に追い詰められ、ヘンデルは卒中で半身不随になるのですが、この短編小説はその発作のところから始まります。温泉治療で奇跡的に回復し、1742年に「メサイア」で成功を収めて復活するまでは感動的です。「メサイア」を24日間で書き上げるところはロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』に似たところがあり、どちらかが真似したのかなと思いました。その後は成功を収めた後に静かに死を迎える場面が描かれますが、この小説を読み終えて私はそれまで持っていたヘンデルに対する嫌悪感が消失しました」
「嫌悪感を持っていたの」
「ヘンデルの音楽は「オンブラ・マイ・フ」を除いてみんなブリリアントでわたしが好きな、しっとり、落ち着いた、感動的な音楽の対極にある気がしていたのです。容姿もブリリアントな感じで、貧乏な生活の私には近寄りがたい気がします。彼の代表曲「メサイア」もアレルヤ・コーラスばかりが目立って他は付けたしのような気がしていたんです。それに「メサイア」は宗教曲ではなくジェネンズが台本を書いたオラトリオです。でもこの小説を読んで、ヘンデルも彼なりに苦労していたということがよくわかり、「メサイア」を一度全曲聴いてみようという気になったんです。アーノンクールのCDを聞いてなかなか良かったので、リヒターやコリン・デイヴィス(私の好きなアメリンクが歌っています)のレコードも聞いてみたいと思っています」
「成功した人が苦労話をするのは興味深い。それをたくさん評伝にしてくれるといいね。ところで「オンブラ・マイ・フ」もいい曲だから、クラリネットで吹いてみると良いと思うよ」
「ぼくはキャスリーン・バトルが歌っているのが好きです」