プチ小説「長い長い夜」
十郎は男ばかりの10人兄弟の末っ子だった。父親は県職員だったので、十郎が幼い頃は3年ごとに転勤した。その頃十郎は幼なかったが、父親はすでに40代で頭髪には白いものが半分近くを占めていた。十郎が小学3年の頃まで父親は参観の時に母親と同じように白髪染めをしていたが、今度の転勤を機に父親は白髪染めは面倒だからやめると言っていた。十郎は、参観などで若い両親と一緒の時は外観だけでも若く見せようと白髪染めをしてると知っていたので、自然のままの方がいいし安い毛染めは見た目が良くないと言いたかったが、十郎のことを思って毛染めをやっていると母親から聞かされたので父親にはそのことを言わなかった。父親が毛染めをやめるという発言をしたのは、十郎が父親の転勤で学校を変わるということも理由の一つだった。
小学4年生になった十郎は父親の本庁舎から地方支所への転勤に伴って県南部の小学校へと転校することになった。それまで住んでいたところは県庁所在地だったので午後10時になっても街は明るかったが、転出したところの職員宿舎の周りは田圃ばかり徒歩で5分のところに小さな神社があるだけだった。小学校までは30分かかった。十郎の家は十郎以外の兄弟は中学生以上だったので、一緒に引っ越さず県庁近くの持ち家に母親と共に留まった。長男から五男までは社会人か大学生で、他府県に住んでいて多い兄弟のことを慮って自分たちで生計を立てていた。十郎は父親とで生活することになったが、十郎が今まで父親が料理をするところを見たことがなかったのでどうなることかと思った。しかし父親は学生時代に京都で生活したことがあり県庁職員になってからも1年間東京で生活したことがあり、自炊は苦にならないとふたりで生活するようになった日の夜、父親は十郎に打ち明けた。
家族の引っ越しの必要がなかったので十郎は早く新しいところでの生活を望んだが、父親の仕事の都合で転出先の職員宿舎に入ったのは4月になって数日経ってからのことだった。ほとんど外出しないで引っ越し後の家の整理を父親として翌日初登校という慌ただしさで、始業式には出られず2日目になんとか登校できた。初登校の朝に父親は言った。
「また新しい友達をたくさん作るといい。こういうことを言うのは普通お母さんからなんだろうが...今日は遅くなると思うから、冷蔵庫にある昨晩作ったカレーで我慢してくれ。明日は夕方に帰るから」
十郎は今まで母親の温かい食事を食べるのが当たり前だったので、晩ごはんを自分で温めて食べることが自分でできるのかと思った。父親はこれからお願いするだろうからと炊飯器でご飯を炊く方法を昨日十郎に教えていた。そんなことを考えていると30分はあっという間で十郎は校門の前まで来ていた。駆け寄って来た女性が十郎に声を掛けた。
「あなた、山根君ね」
十郎は突然若い女性から声を掛けられたので、驚いて吃音になった。
「そ、そうです。お、お世話になります。あ、あなたはどちらさまですか」
その女性は十郎の緊張をほぐせると思って笑顔を見せたが、若い女性とほとんど話したことがない十郎には逆効果だった。
「せ、先生なんですね。お手間取らせて、申し訳ないです」
「口調が落ち着いて来たわね。そう、私は担任の奥山って言うの。奥山だから、山奥で生まれたと思うかもしれないけどこの近くで生まれ育ったの」
奥山先生は生徒の気持ちをほぐすために言ったつもりだったが、十郎は奥山先生が山奥でなくて良かったですねと言ったらいいのかこの街で生まれて良かったですねとどちらをいいのか迷って固まってしまった。奥山先生は黙って何も言わない男の子を見て印象を悪くしてしまった。それを察した十郎はすかさず言った。
「ぼ、ぼくは父親が本庁に勤めている時に生まれたので、山奥ではありません。生まれてしばらくは○○市に住んでました。その後は3年ごとに引っ越ししています」
「そうか、先生、あなたに答えにくい話をしてしまったのね。ごめんなさい」
十郎は母親からも謝られたことがなかったので、慌てて応えた。
「先生は何も悪いことはしていません。悪いのは何も言わなかったぼくの方です」
奥山先生は十郎の謝罪を笑顔で受けて、腕時計を見て言った。
「授業が始まるまで少し時間があるわ。あなたは教室の中で待っていて」
十郎は女性から、あなたと言われたことがなかったので何か偉くなったような気がした。
それから10分程して始業のベルが鳴り、奥山先生が教室に入って来た。十郎は一番の前の席に座っていたので、先生はすぐに笑顔で十郎を呼び寄せて他の生徒に紹介した。
「みんなは3年生からクラス替えをしていないから、紹介の必要はないわね。でも山根君は4年生になってから転入して来たからみんなに紹介するわね」
山根さん、山根君と他の生徒が言うのが聞こえたが、先生は話を続けた。
「山根十郎君は今まで県内のあちこちに住んでいたから、みんなと共通の話題があるかもしれないわ。みなさん仲良くしてね。山根君から何かあるかしら」
十郎は共通の話題を言ってうけを狙うのがいいのか、転校生としては挨拶だけをして大人しくしているのがいいのかわからなくなって固まってしまった。何も言わないので、気を悪くした3年生の時に級長をしていた山北が言った。
「なんで何も言わんの。なんか言わんと進まんよ」
奥山先生はさっき山根の様子を見ていてだいたいの性格を把握していたので、生徒同士がぶつかり合わないよう配慮した。
「山北君は饒舌だからすらすらと話が出来るけど、山根君はそうじゃないみたいよ。慣れたらもっとみんなと話が出来るようになると思うから、それまではみんなから山根君にいろいろと教えてあげてね」
山北以外の生徒は、はーいと奥山先生に応えたが、山北は1時間目の授業が終わって奥山先生が教室から出て行くと山根に声を掛けた。
「山根君は大人しいから、ぼくみたいにおしゃべりじゃないから、黙っていても平気なんだね」
十郎はしばしば考え込んでしまって話が中断することがあったので、山北が指摘したことは親戚のおばが言うように、ほんまそうやねん、なんでわかったんと言いたいところだった。しかしそういう説明が出来ない山根はまた黙り込んでしまった。それを見て、洞察力のある山北は本人を傷つけないように言葉を選んで話した。
「ぼくはそんな友人が今までにも何人かいて、みんなと同じように学校が楽しくなるようにしてきたんだ。そうだ、さっそく今晩顔つなぎをしないか」
山北にそう言われると十郎の頭の中は目まぐるしく動いた。山北君は顔つなぎと言ったけど、初めて聞いた言葉だ。顔をどうやってつなぐのかな。それから山北君は今晩クラスのみんなと仲良くできるようにぼくをどこかに連れて行ってくれるようだが、父親が作ったカレーを夕食に食べないといけない。十郎はどうしようかと思って固まってしまって言葉が出なかった。山北は山根からの言葉を辛抱強く待ったが、始業のベルが鳴って奥山先生が教室に入って来ても山根は黙ったままだった。