プチ小説 「長い長い夜 5」

十郎はクラシック好きの洋子のお父さんがどんな様子なのか興味があったが、現れたのはオリーブ色のワークシャツに千鳥格子のジャケットを羽織り、茶色のパンツを履いた年齢より若く見える170センチくらいの痩身の男性だった。男性はうれしそうに十郎に話し掛けて来た。
「やあ、よく来たね。今日は山北君がお友達を連れて来ると聞いていたから、急いで帰って来たんだ。遅れてさらに帰るのが遅くなると申し訳ないから」
十郎は最初から子供に遠慮して話すおじさんに親しみを感じたが、洋子の父は挨拶が済むとすぐにクラシック音楽の話を始めた。
「それじゃあ、お待ちかねのクラシック音楽で楽しい時間を過ごすというのを始めましょう。いつものように山北君がリクエストをしてくれてると思うのでそれをもとに話を始めることにしよう。じゃあ、みんな応接室からリスニング室に異動してもらおうか」
すぐ隣にある部屋がリスニング室だったが、8畳ほどの部屋の正面の中ほどに棚に乗ったプレーヤー、セパレートアンプ(プリアンプとパワーアンプ)、チューナー、テープデッキが置いてありその両側に大型スピーカーが置かれてあった。十郎は洋子の父親がたくさんのアナログレコードを持っていると聞いていたので正面に向って左手の壁に棚に入れられたレコードが100枚ほど置かれているだけで最近売られるようになったCD(コンパクトディスク)は1枚も置かれていないのに驚いた。十郎の様子を見て、洋子の父は笑顔で十郎に説明した。
「お名前は山根君だったね。君が今思っている通り、CDが全然無くてアナログレコードも100枚しかここにはない。私が今までに購入したレコードはあと200枚あってそれは別の部屋に置いてある。CDの音はアナログレコードとは別物だから、将来レコードが売られなくなったら買うだろうけど今のところ装置を買うつもりはない。アナログレコードは私の父からもらったレコードが500枚あってこれも別の部屋に置いてある」
洋子の父が脱線気味なのを洋子が咎めた。
「お父さん、そんな話をしていたらいつまでたっても終わらないわ。そろそろ本題に入ったらどう。山北君はドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」が聞きたいとリクエストしているわ」
洋子の父は少しだけむっとした表情を見せたが、すぐに笑顔に戻って解説を続けた。
「そうか「新世界より」をリクエストしてくれたんだね。それだったらそれに関連して少し話をしよう。ドヴォルザークは9曲の交響曲を作曲しているが、有名なのは7番、8番、9番なんだ。ドヴォルザークが作曲したオーケストラ曲は他に、「弦楽セレナーデ」「スラヴ舞曲集」が有名だけど何と言ってもチェロ協奏曲が一番優れている。ドヴォルザークはピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲も作曲しているが、こちらはそれほど・・・」
十郎が思った通り、洋子から声がかかった。
「お父さん、また脱線しているわよ。このまままじゃあ、予定通りに終わらないわよ」
「お父さんはどうしても話したいことがあるから、もう少し我慢して。ドヴォルザークの後期の交響曲3曲、チェロ協奏曲は名曲に違いないが、もう一つ知っておいてほしい曲がある。それは序曲「オセロ」という曲なんだ。あまり有名でないのでレコードも少ないけどイシュトヴァン・ケルテスがロンドン交響楽団を指揮して名演を残している。ケルテスはこれからアメリカを舞台に飛躍するところだったのに・・・」
「お父さん、お願いだから早く本論に入って」
洋子の父は大切なところを割愛せざるを得なくなったため目頭に涙を浮かべて次に移った。
「今日は「新世界より」をまず聞くことにしましょう。カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏が定番ですが、ワルター指揮コロンビア交響楽団やクーベリック指揮ベルリン・フィルも優れていると評価されています。今日は先程紹介した序曲「オセロ」と交響曲第9番「新世界より」をケルテス指揮ロンドン交響楽団の演奏でお聞きいただきましょう」
しばらくしてレコードが鳴り出したが、部屋にある掛け時計を見ると午後8時を少し回っていた。十郎は山北との関係を大切にしたかったので最後まで聞くつもりでいたが、洋子が割り込まないと終わりそうにない洋子の父がする解説と洋子の父が推薦するレコードを聞いたらいつ帰られるんだろうと心配になって来た。