プチ小説「長い長い夜 8」

十郎は山北との話が終わると帰りを急いだ。昼食を一緒に食べようと父親と約束していたからだ。
<今日はチャーハンと中華スープをつくるからとお父さんは言っていた。いつも夜が遅くて一緒に夕ご飯が食べられないから、今日くらいは一緒に食べないと>
そう思いながら十郎が駅の前を通り過ぎようとすると、後ろから声が掛った。
「あら、山根君、まだ帰っていなかったの」
「あっ、先生、山北君と話していて学校出るのが遅くなってしまって・・・それより先生は今からどこかに行かれるのですか。それは楽器のようですが」
奥山先生は見られたくないものを見られたように楽器のケースを後ろにやって十郎から見えないようにした。
「まだ、習い始めたところなので山根君たちから演奏が聞きたいと言われると困ると思ってこっそり習っているの。だから山根君はこのことを言わないでね」
「もちろん、先生が困るようなことはしません。でも何を習われているのですか」
先生は十郎に少し話しておきたい気持ちがあったのか、十郎を駅の待合に誘導して長椅子に腰掛けさせた。
「これはクラリネットという楽器なんだけど、山根君知ってる」
「歌(クラリネットこわしちゃった)は知っていますが、楽器を見たのは初めてです」
「先生はクラシック音楽のファンなんだけど、今まではレコードを聞くだけだった。でも自分でも演奏してみたくなったの。それで1年前から習い始めたの。実は私学生の頃から楽器演奏をしたくて仕方がなかったんだけど。ピアノやギターは無理だなと思っていたの」
十郎は、楽器が上手くなるためには練習あるのみと思っていたのが違うと言われたのでなぜかなと思った。
「山根君は多分、楽器は誰でも練習すれば上手くなると思っているようだけど、先生はそうは思わないの」
十郎は楽典を覚えるのが大変ということを言われているのだなと思って言った。
「ハ長調とかイ短調とか、シャープやフラットが5個付いたりとか、8分の12拍子とか、三連符とか・・・楽典を覚えるのは大変と親戚の人から聞いたことがあります」
「うん、確かにそうなんだけど、それ以前というか・・・先生の場合、ギターのコードをつま弾きながら歌うっていうのが全くできないの。ピアノも片手でコードを弾いてもう一つの手でメロディを弾くと聞いたから、私には無理だと思ったの」
「そしたらドラムとか太鼓ですか」
「うーん、やっぱり楽器を習うんだったら、自分で心ときめくメロディを演奏してみたいわよね」
「メロディとなるとトロンボーンやチューバやファゴットは無理ですね」
「それからギターのようなチューニングが必要なヴァイオリン、チェロなんかも私には無理だと思ったの」
「そうするとトランペット、サックス、クラリネット、フルート・・・それからもう少ししたらぼくたちも習うリコーダーくらいかな」
「リコーダーは音域が狭いから。トランペットとサックスは音が大きいので」
「とするとクラリネットかフルートになりますね」
「フルートは女性が憧れる楽器だけど、先生ちょっとへそ曲がりだから横から息を入れるより正面から息を入れる方が感情移入しやすいんじゃないかと自分で勝手に考えたの。それでリード楽器は音を出すのに苦労すると聞いていたけど息を吹きこめば音は鳴るから、後はどれだけ練習するかと考えてクラリネットを習うことにしたの」
「音は簡単に出たんですか」
「口元の加減のことをアンブシャーと言うんだけど、最初の頃はクラリネットの先生が熱心に音が出せるように指導してくださるわ。1年習ってようやくそれが安定したという感じなの。だからこれからは音域を広くして、替え指を覚えてレパートリーを増やしていこうと思っているの。最初の頃は自分が未熟なのをグループレッスンの他の人に知られたら困るし恥ずかしいと思っていたんだけど、クラリネットなどのリード楽器を習う人のほとんどは初心者だと言うことがわかってあまり恥ずかしいと思わなくなったの。どうせ習うなら、恥ずかしがらずに後悔しないように先生に知りたいことを尋ねて楽器の演奏方法を習得しようと思っているのよ」
「それで今日はレッスンの日なんですか」
「いいえ、やっぱり先生のようなまったく習ったことがない人は勉強と同じように予習と復習が必要なの。その練習を今からしに行くの。レッスンは明日の午後からなの。お腹が空いているのに、ごめんなさいね」
「いいえ。先生、上手くなったら演奏を聞かせてください。それからどんな曲が演奏できるようになったか教えてほしいなぁ」
「私の演奏は発表会で聞けるけど、同じグループの人との演奏だから私の音を聞き分けるのは難しいわ。上手くなったら、みんなの前で聞いてもらいたいけど、そこまで上手くなるには5年はかかるでしょうね」
「そしたら山北君もぼくも卒業していますね」
「早く上手くなって、みんなの前で演奏できるように頑張るわ」
十郎は今すぐにでも演奏が聞けたらと思ったが、演奏を聞いてがっかりするよりもう一度聞きたいと思う演奏を聞く方が先生にも自分のためにもなると思って、先生から演奏を聞いてほしいと言われるのを待っていますとだけ言ってから駆け足で家へと向った。