プチ小説「長い長い夜 9」
山北が十郎に、話があるので6時間目が終わっても教室にいてと言ったので、十郎は終業のベルが鳴っても椅子に座ったままでいた。しばらくすると山北が十郎の席に来て言った。
「山根君にクラシック音楽をもっと楽しんでもらおうと思ってこんなものを持って来たんだ」
山北は演奏家の写真が印刷された印刷物を数枚十郎に渡した。
「これはチラシだね。オーケストラもあるけど一人だけのもある」
「そう、ピアノだけのもある。一人で演奏する場合、ソリストと言うんだ。一人だけで演奏する場合にそう言うけど、オーケストラと共演してピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルート、クラリネットなどを演奏する人もそう言う。つまりオーケストラに伴奏をしてもらって自分の演奏を盛り上げるんだ。一人で演奏する場合はその楽器の音がじっくり聞けるから、演奏家の個性が光ると言える」
「このチラシを見るとウィーン・フィルとドレスデン国立歌劇場管弦楽団とイ・ムジチ合奏団とアルフレッド・ブレンデルとウラディーミル・アシュケナージと印刷されてあるね。ブレンデルさんはソリストでピアノを演奏するんだね」
「ピアノのソリストはピアニストと言って、ヴァイオリンはヴァイオリニスト、チェロはチェリスト、フルートはフルーティスト、クラリネットは・・・あんまり聞かないなぁ」
「ピアニストのブレンデルさんはどんな曲を演奏するの」
「おじさんによるとモーツァルトとベートーヴェンの演奏が中心だけどシューベルト、シューマン、ブラームスなんかのロマン派のピアノ曲も演奏する」
「ショパンは演奏しないの」
「さあ、そこまで詳しくないから。おじさんはブレンデルが演奏するモーツァルトとベートーヴェンは堅実な演奏だから、大きくなって聞く機会が出来たら生演奏を聞くといいと言っていた」
「レコードの演奏と違っているの」
「レコードの演奏は演奏家が気に入るまで何度も取り直すんだ。だから最初の楽章から最後の楽章まで続けて録音したものをそのままレコードにするわけではない。別々の日に一つずつの楽章を録音してレコードにすることもある。だから間違いはないけれど一貫していない場合もある。でも演奏会の場合はやり直すわけに行かないから間違ってもそのまま続けられる」
「それじゃあ、レコードの演奏の方がいいのかな」
「ちょっとしたミスも許さないと言う人はレコードを選ぶのだろうけど、生演奏は演奏家が演奏した音楽を近くで直に聞きレコードのように加工されたものでないから本当の音と言っていい。ミスもほとんどないと考えると高いチケットを買ってでも行く値打ちはあると思う」
「そうなんだね、ぼくも大人になったら生を聞きに行こうかな。それでブレンデルさんはモーツァルトとベートーヴェンのどんな曲を演奏するの」
「ブレンデルさんはモーツァルトもベートーヴェンもピアノ協奏曲とピアノ・ソナタが中心なんだ。おじさんはブレンデルさんのピアノ独奏が好きみたいで、ベートーヴェンのワルトシュタイン・ソナタ、モーツァルトのピアノ・ソナタ第8番を聞かせてくれたことがあるんだ。モーツァルト・ベートーヴェンのレコードは他に4人の管楽器奏者と録音したピアノ五重奏曲があるけどおじさんはこれは他の演奏家、確かギーゼキングと言っていた、がいいと言っていた」
「ブレンデルさんの演奏が全部一番ではないのかな」
「さあ、それは好みによるだろうな。コレクターの人は一人の演奏家ばかりを収集するんじゃなくてこの前山根君に見せたような本を読んで良さそうな演奏を集めるみたいだよ」
「ブレンデルさんはロマン派のレコードもあるの」
「うん、でもおじさんはシューマンとブラームスは持っていないようだよ。その代わりシューベルトのレコードをいくつか持っていて気に入っておられるようだよ」
「どんなのがあるの」
「有名なのは、ピアノ五重奏曲「ます」と2つの即興曲集だけど、ピアノ・ソナタ第20番と「さすらい人幻想曲」もすばらしいと言われていた。ぼくは今のところ「さすらい人幻想曲」しか聞いていないけれど、最後のところなんか、よくこれだけ素早く指が動かせるなぁと思った。メロディも素晴らしいから、また聞かせてほしいとおじさんに言ったら、おじさんは、君もこの曲が好きになったんだねと言っていた」
「シューベルトと言ったら、軍隊行進曲と子守歌くらいしか知らないなぁ。でもおじさんところでレコードを聞かせてもらっていたら、いつか「さすらい人幻想曲」を聞かせてもらえるんだね。楽しみだな」
「ぼくももう一度聞きたいから、リクエストしておくよ」