プチ小説「長い長い夜 10」

山北が十郎に、今日は土曜日だけどお昼からに面白い催しがあるから行かないかと誘ったので、十郎は内容をよく知らないまま隣の市まで電車で出掛けることにした。催しが午後2時からとのことだったので、授業が終わって駅の売店で菓子パンを食べてから電車に乗ることにした。十郎は一旦家に帰ってすぐに集合場所に行ったが、すでに山北は来ていた。山北はジャムパンとクリームパンを十郎に渡しながら言った。
「山根君の分も買っておいたから食べて」
「ありがとう。じゃあ、電車の切符はぼくが買おうか」
「いや、そんなルーズなことはしないで、それぞれきっちり支払いはしておこう。パン代は合わせて60円だから」
「ところで今日はどんな楽しいことがあるのかな」
「それより、もう少ししたら、K市行きの電車が来るから、それに乗ってからにしよう」
十郎が切符を買うと山北は改札口に行き、駅員さんに切符に鋏を入れてもらった。隣のホームにだったので、屋根付きの階段を登り降りしてホームに立つと電車が入って来た。山北は2つの席が向かい合わせの座席に十郎と向かい合わせに座ると話し始めた。
「2つ目の駅まで10分程あるから、催しのことについて話しておこう。これからの催しもレコード鑑賞なんだけど、洋子ちゃんのおじさんのレコードと少し違うところがある」
十郎はまたクラシック音楽が聞けると思って笑顔になったが、山北はそれが気になったのか。気を削ぐような話をし出した。
「おじさんのところで聞かせてもらえるLPレコードというのは改良を重ねて理想的なものになっているが、今から聞くSPレコードはその前の時代のレコードでいろいろ問題点がある」
「じゃあ、つまらないのかな」
十郎の反応に山北は少しむっとした表情を見せたが、自分の言い方が悪かったと思い直して言った。
「SPレコードはLPレコードが作られるようになる以前のレコードでだいたい1950年代半ばまではこちらの方が多かった。だからそれまでに活躍していた演奏家はSPレコードに録音していた。だからずっと昔の名演奏家の演奏をよい音で聞きたいと思ったらSPレコードを聞くことになる」
「ラジオでSPレコードの音を聞いたことがあるけど、ザーッという音がひどくてあまり演奏家の楽器の音が聞けなかった」
「多分、それはSPレコードの音を処理してLPレコードの入れたものだと思う。SPレコードを蓄音器か電蓄で聞けばそういう音の悪さはあまり感じない」
「今日はそういうのが聞けるのかな」
「今日はSPレコードを蓄音器で聞かせてもらえるんだけど、もう一つ問題点があるんだ。洋子ちゃんの家で聞かせてもらったレコードは片面どのくらいだったか覚えているかな」
「えーと、だいたい20~30分くらいかな」
「SPレコードは5分位かな」
「それだと交響曲や協奏曲は入らないね」
「もともと小曲の録音しか考えていなかったと思う。でもそれ以上の長さになるとどうしても曲の途中で寸断することになって楽しんでいられない。ぼくはベルリオーズの幻想交響曲をワインガルトナー指揮のSPレコードを聞いたことがあるけど5、6枚のレコードを曲の途中で裏返したり取り替えたりしていた。これではとても曲に没入できないと思った」
「それでも聞く値打ちがあるんだね」
「そう、LPレコードで聞かれない場合はやはりSPレコードで聞くしかない。そういうことがあっても名演奏家のレコードは聞く価値がある。演奏が長いと寸断されること、再生装置(蓄音器か電蓄)が必要なこと。電蓄の場合は針交換はそれほど頻繁に行わないで済むが、蓄音器は一面再生するごとに交換しなければレコード盤が痛む、蓄音器は部品がないので自分で直すしかないというのも難点なんだ...ということを山根君の頭に置いてもらって、蓄音器の音を聞いてもらおうと思う」
催しの会場に入ると体育館ほどの広さのところに台に乗せた蓄音器とそれに向かい合って折りたたみ椅子が50脚置かれてあった。山北が最前列の蓄音器側から見て左端に座ったので、十郎はその隣に座った。山北によると、ディヌ・リパッティによるショパンのワルツ演奏がメインのSPレコードコンサートとのことでそのあとは主催者のおじさんが一緒に持参したクラシック音楽のSP盤を観賞した。おじさんはSPレコードのコレクターのようで、ハイフェッツ(ツィゴイネルワイゼン)、クライスラー(ブラームスのワルツ)、カザルス(夕星の歌)、エルマン(タイスの瞑想曲)、ガリ=クルチ(はにゅうの宿)なども掛けた。催しが終わり体育館の壁に掛っている時計を見ると午後4時30分を指していた。
「さあ、急いで帰らないと日が暮れてしまう。夕ご飯が遅くなってしまうね」
「ううん、うちはいつも夕ご飯は午後7時だから。それにお父さん、山北君にいろいろ連れてもらっていることを喜んでいるから、心配ない。今日あったことも楽しんで聞いてもらえると思う」
「そうなんだね、でも寄り道しないで何とか7時に間に合うくらいだから、すぐにここを出よう」
まだ5月の半ばだったので十郎が家に着く頃にはあたりは暗くなっていた。帰り道で山北が1年に1回くらいしか開催されないと言ったが、十郎は今度は洋子も誘ったらと言ったら、山北は、遅くなるから難しいんじゃないかなと言った。