プチ小説「長い長い夜 11」
その日は洋子の家でレコードコンサートが開催される日だったが、午後6時過ぎに十郎と山北がレコードコンサートが行われる部屋に入ると洋子と父親がいて父親が二人に話し掛けて来た。
「山北さんから報告してもらっていいかな」
十郎は洋子の父親が山北をさん付けで呼ぶのに驚いたが、後で十郎が山北にそのことを言うと山北は笑って、お父さんは誰に対してもさん付けで呼ぶんだと言った。
「お父さんが依頼されたことをすべて覚えるのは無理なので、コンサートを開催されていた方の一人にお願いして演奏された曲を紙に書いてもらいました。これがリパッティのワルツ集以外の曲だと言われてました」
そう言って、山北は何かが書かれたルーズリーフの1枚を洋子の父親に渡した。
「ハイフェッツのツィゴイネルワイゼン、クライスラーのブラームスのワルツ、カザルスのワーグナーの夕星の歌、エルマンのマスネのタイスの瞑想曲それからガリ=クルチのはにゅうの宿か、他には掛けなかったのかな」
「いつもの通り、岡晴夫さんの「東京の花売り娘」と津村謙さんと吉岡妙子さんの「あなたと共に」が最初に掛りました」
「あのおじさんは懐メロも好きだからね」
十郎はクラシック音楽のコンサートで歌謡曲が掛ったのを不思議に思っていたので洋子の父親に尋ねた。
「ぼくはクラシック音楽しか掛らないと思っていたけど」
「催しを開催するおじさんの性格に因るけど、あのおじさんはクラシック音楽だけでなく戦前戦後の歌謡曲のSPレコードもかなりたくさん持っておられる。それにどこか剽軽なところがあってサービス精神もあるから、クラシック音楽だけじゃなくて歌謡曲も聞いてもらおうということになったのだと思う。まあ、自分で楽しんでいるレコードを幅広く聞いてもらおうという気持ちからじゃないかな。ジャズはちょっと異質な感じで一緒に掛けるのは抵抗があるけど、懐メロを少し掛けるのは許せる気がする。山根さんはSPレコードを聞いてみてどうだった」
「ここでは長い曲ばかりだったので、短くても楽しい曲が聞けて良かったです。昔の歌謡曲もいい曲があるんだなと思いました」
「そのとおり。短い曲でもたくさんいい曲があるし、他のジャンルの曲もいいのがいくらでもある。おじさんが選んだ曲が山根さんに合うかわからないけど、みんなが聞いて楽しめる曲を掛けているつもりだ。重箱の隅をつま楊枝でほじくるという表現があるが、おじさんはなるべく君たちに音楽でひもじい思いをさせないようにビフテキのような味わいが濃くて栄養がある曲を聞いてもらうつもりだ。それからクラシック音楽だけに限らず他の音楽もたまには・・・」
洋子の父親がそう言うと十郎が驚いたことに山北が口を挟んだ。
「ぼくはここで昔の歌謡曲を聞きたいとは思いません。うちのラジオでも聞くことができますから」
洋子の父親は最初驚いた顔をしたが、すぐにやさしい笑顔になって話した。
「ははは、それもそうだね。ところでもう少しSPレコードで聞くのがいいクラシック音楽の話をしようか」
「是非お願いします」
「愛らしい小品がSPレコードでたくさん聞けるが、もちろん交響曲もSPレコードでしか聞けない名盤がいくつかある。おじさんが最初にあげたいのはベートーヴェンの交響曲第5番の最初のレコードと言われるアルトゥール・ニキシュ指揮ベルリン・フィルの演奏だけど、このレコードが録音されたのは1913年となっている。もちろん最初に全曲が録音された貴重なものだが、演奏も素晴らしいとされている。おじさんはまだ聞いていないが、山北さんも山根さんも機会が会ったら聞いてみるといい。それからLPレコードにも名演がたくさんあるが、ブルーノ・ワルターはSPレコードにたくさん名演を残している。彼のモーツァルトやシューベルトのSPレコードを聞く機会があったら聞いてみるといい」
「リパッティ以外のピアニストはどうですか」
「ケンプとバックハウスはLPレコードでもいい音でベートーヴェンの曲が聞けるからあえてSPで聞く必要はないだろう。リパッティのレコードもそうだ。コルトーも外国盤だといいのがある。著名なピアニストが本領を発揮するのはピアノ協奏曲、ピアノ・ソナタ、前奏曲集、ワルツ集などの長い曲ばかりで、小曲1、2曲では物足りない気がする。ヴァイオリンやチェロなら短い曲でも音色に惹かれて購入したい気が起こるかもしれないが・・・」
「それでこの前のSPレコードコンサートで掛けなかったのかな」
「探せばLPレコードで聞けるからね。だからSPレコードで聞くのは、パハマン、パデレフスキー、ランドフスカといったさらに前の時代の音楽家になる。でもおじさんの感想はパハマンやパデレフスキーは無理に聞かなくてもいいと思った。そうだ今日は山北さんがリクエストしてくれたリヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲を掛けるけど次回はコルトーを聞いてもらおうかな」
「どんな曲ですか」
「コルトーは、カザルスやティボーと共演したベートーヴェンやロマン派の作曲家の名盤があるけど、ショパンの曲の独奏もすばらしい。前奏曲集、バラード集、練習曲集が良いと思う。全部を通して聞くと2時間以上になってしまうけど」
「ぼくはおじさんが推薦する曲を全部聞きたいけど、山根君はどうかな」
「もちろんぼくも聞きたい。お父さんに了解を獲ておくよ」