プチ小説「長い長い夜 12」
今日は洋子の父親が解説するレコードコンサートの日ではなかったが、山北から用事がないなら一緒に来ないかと誘われ十郎は二人で洋子の家に行くことになった。山北によると洋子の父親の友人が不定期に訪れて気の赴くままにクラリネットの演奏を聞かせてくれるが、洋子から今日そのおじさんが来ると聞いたとのことだった。チャイムを鳴らすと洋子が現れた。洋子は観客が一人増えたから〇〇さんいつもよりも張り切って演奏してくれると思うわと笑顔で言ったが、一番喜んでいるのは洋子のように十郎には思われた。
「おじさんは趣味でクラリネットの演奏をしているのだけれど、目の前でいろんな曲を演奏してくれるから私は楽しみにしているのよ」
「いつからおじさんの演奏を聞くようになったの」
「確かおじさんは40才からクラリネットのレッスンを受けるようになったと言っていてもうすぐ定年と言っていたから20年になるかしら。父と会社で同じ職場だったけど、今は部署が違うの。5年くらい前から家に来てくれるようになって、父にいろんな曲を聞かせるようになった。おじさんが家に来ることを楽しみにしているのは私が熱心に聞くからみたい。1年前から山北君も一緒に聞いてくれるようになっておじさんはそれまで以上に頑張ってクラリネットを吹いてくれるようになった。今日は山根君も一緒だからおじさん今まで以上に楽しい演奏を聞かせてくれると思うわ」
「あんまり難しい曲は演奏しないけど、おじさんはきれいなメロディをたくさん知っていてその一部を演奏してくれる。ぼくとしては伴奏付きの演奏をしてほしいけれどきっちり演奏するのは大変みたいだよ」
「どういうところが、大変なの」
「まずお相手探しをしないといけない。そうして一緒に演奏してくれる人がいても時間調整をしてスタジオ(練習場)を借りないと練習はできない。だからおじさんは早々と楽器が出来る友人にピアノ伴奏を頼んで練習するのを諦めたみたい」
「じゃあ、どうするの」
「伴奏付きで演奏するのは発表会のときだけで、他は一人で黙々と練習してるらしい。おじさんは好きな曲がいつでもすぐに練習できるからその方がいいと言っているらしい。学生時代ならブラスバンド部なんかで好きなように吹けると考えられるけど、実際のところは発表会などで演奏する曲を練習しないといけないからいつでも自由に好きな曲を自分ひとりで演奏できるわけではない。発表会などできちんと演奏できないと周りに迷惑がかかるから技術(きちんとしたタンギングや早く運指ができるようになること)の習得に時間を掛けることになる。好きな曲を吹く時間なんてほとんどないんじゃないかなと言っていた」
「それって、どういうこと。クラリネットを吹くのは一緒でしょ」
「さあ、そこのところは本人に確認しないとはっきりとわからないけど、例えば周りからレベルに達していないとしょっちゅう言われるのはつらいんじゃないかな。ある程度の才能があれば気にならないけど好きと技術レベルは別物だと思う。せっかく楽器演奏に興味を持っても例えば腕に自信がある人が多いブラスバンド部に入って一緒に練習するようになったらレベル以下だと基本的な技術の習得ばかりに時間を掛けることになる。それより大人になるまで待って基本的なことから少しずつ学べば途中でやめるようなことは少なくなるんじゃないかな」
山北の話を聞いていた洋子はニッコリ笑って言った。
「この前の時におじさんそんなことを言っていたわね。私はみんなで楽しくやれば問題は起こらないと思うわ。下手でも好きだったら続ければいいのよ」
「そんなものかなあ」
「さあ、早く行きましょ」
三人が部屋に入ると、談笑しながら洋子の父とおじさんがコーヒーを飲んでいた。山北と山根が挨拶すると洋子の父がおじさんを紹介した。
「やあ、よく来たね。山根さんはクラリネットを聞くのは初めてかな。こちらは会社の先輩の倉さんだ」
おじさんはにこにこしながら頭を下げるとすぐに椅子に腰掛けて楽譜を見ながら、ホルストの「木星」を演奏した。十郎は近くでクラリネットの演奏を聞くのは初めてだったが、木管楽器の温かい音は心地よかった。
<奥山先生もクラリネットのレッスンを習っていると言っていたけど、本当にこの楽器の音はすてきだな。それにしてもこのおじさん袋に一杯楽譜を持って来ているなあ>
「ああ、楽譜のことだね。おじさんは暗譜がないと吹けないんだ。じゃあ、次はG線上のアリアをやります」
十郎はG線上のアリアをヴァイオリンの演奏で聞いたことがあったが、クラリネットは初めてだった。
「倉さん、娘が演奏してほしい曲があると言っていた。聞いてもらえるかな」
「もちろん、大歓迎だよ。曲名は何かな」
「私、この前、学校の音楽の授業で歌った浜千鳥が聞きたいわ」
「楽譜があるから、OKだよ。カーペンターズとかのポップスもリクエストしてもいいからね」
結局、夕方近くまで途切れることなくリクエストはつづいたが、おじさんは鼻抜けすると続けられないから、30分ごとに5分休憩を取らせてほしいと言った。5度目の休憩の時に十郎は気になっていることをおじさんに訊いてみた。
「おじさんはブラスバンド部には入らない方がいいと思うの」
十郎がそう言うとおじさんは驚いたが、それまでと違って真面目な表情で十郎に応えた。
「そんなことはない。若い時はいろんなことに挑戦することだ。ただおじさんには苦い経験があるから、楽器を習う時期はよく考えるのがいいとアドバイスしたんだ。楽器演奏は楽しいから、フライングや出遅れでチャンスを逃さないようにしないともったいないからね。おじさんの場合、楽典のことが全然わからない小学5年の頃にオルガンをひかされて楽器が嫌いになってしまった。中学2年の時は縦笛の難しい合奏曲を授業でやったりしてまったく吹けず授業に出たくなくなった。それで高校生になると音楽は芸術の選択科目だったから音楽は選択せずに美術を選択したんだ。でもポップスやジャズやクラシックの名曲を聞いているとどうしても自分で演奏したくなった。おじさんが若い頃はフォークソングの全盛時代で音楽の素養がある人はみんなギターをつま弾いた。ギターや鍵盤楽器の演奏ができないおじさんは人差指で小さなキーボードを押さえてメロディを奏でるくらいだったけどそれでも楽しかった。そうして40才になってついに念願を叶えたわけだ」
「どうしてクラリネットだったの」
洋子が尋ねるとおじさんはうれしそうに答えた。
「一番の理由はやさしい音色かな。普通に吹けばちゃんとした音程で音が出るし、音域が広いからいろんな曲に挑戦できるというのもある」
「おじさんは楽器は大人になってからと言うけど授業で習わないわけにはいかないわ。私が知っている人は縦笛が吹けないと嘆いて授業に持って行かなかったら、廊下に立たされたわ」
「そうか、必須科目だったら避けて通れないね。何とか頑張ってそこを切り抜けて、大人になってから好きな楽器を自分で買って演奏するしかない」
おじさんが返答に困っているのを見て洋子の父が助け舟を出した。
「倉さんは楽器のお陰で今は毎日が楽しいと言っている。小中学生の頃に楽器が上手く演奏できなくてそれで楽器を遠ざけてしまうのはもったいないことだ。どんな先生の授業を受けることになるかわからないから、不幸にしてそんなことになったら我慢するしかない。少々辛い目に遭っても大きくなって楽器を演奏したいという意欲が湧いてきたら、小中学校の頃の授業と親切な講師が教えるレッスンは全く別物と考えてレッスンを受けてみてほしい。楽器を演奏することは大きな楽しみとなる可能性があるのだから」
「倉さんは今度いつ来るのかな」
「実は倉さんは定年になったら故郷に帰ることになっている。だから・・・」
おじさんは洋子の父の言葉を遮って自分が話を継いだ。
「いや、ぼくはみんなの前で演奏するのが楽しいからまた来るよ。でも今までのように頻繁には来られない。年に一度くらいは来たいなあ」
洋子は必ず前もって連絡してね。山北と山根にも来てもらうからと言った。