プチ小説「長い長い夜 13」

恒例のレコードコンサートがある日はいつも山北が十郎を迎えに来るが、いつもより30分早く山北が来たので十郎は慌てた。父親が用意してくれた夕食を食べてから出掛けることにしていたが、今日は慌てておにぎりを1つ食べただけだった。山北がいつもより早く来たことが気になったので、家を出ると十郎は山北に尋ねた。
「どうしていつもより30分も早く始まるの」
「そうだね、そのことをまず説明しないといけないね。実は今日は洋子ちゃんのお父さんに急用ができていつものレコードコンサートができなくなっちゃったんだ」
「それだったら出掛ける必要がないんじゃないの」
「そうなんだけど、洋子ちゃんがお母さんにお父さんの代役をしたいと言ったみたいなんだ。ぼくはコンサートのある日は始まる前に洋子ちゃんの自宅まで行って確認するんだけど、今日はお母さんが生憎会社で急用が出来てしまったから、娘が代役を勤めると言ったんだ。お母さんは認めたんだけど、30分早く始めて30分早く終わることになったんだ」
「今までにそんなことがあったの」
「もちろん、初めてだよ。お母さんがそう言った後に、洋子ちゃんが尋ねたんだけど...」
「どんなことを訊いたの」
「お父さんが予定していた曲を聞いてもらうか、私が好きな曲を解説付きで聞いてもらうかのどちらがいい。私が好きな曲なら解説付きよと言ったらしい。そしたらお友達に直接訊いたらとお母さんから言われたみたいだよ。ぼくは、もちろん洋子ちゃんの解説が聞きたいから洋子ちゃんが好きな曲がいいと言ったんだ。それで山根君はいいかな」
「もちろん、それでいいよ。でも、洋子ちゃんが好きな曲ってどんなの」
「ベートーヴェンとモーツァルトなんだ」
「ぼくはモーツァルトかなあ」
「どちらが好きかってこと。ぼくはやっぱり両方とも好きだな。ベートーヴェンの音楽に比べるとモーツァルトの音楽は軽いって言う人がいるけれど、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第4番なんかは若い女性を描いた音楽と言われていてとても軽やかな感じがする。ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」は春のウキウキした感じが溢れていて陽気な気分にさせる。モーツァルトの音楽は確かにベートーヴェンの音楽に比べると明るくて気軽に聞けるけど中には感動的な楽曲もある」
「どの曲なの。レクイエムかな」
「レクイエムは後半部分は他の作曲家が完成させたものだからね」
「じゃあ、悲しみのシンフォニーと言われる交響曲第40番かな」
「ぼくはモーツアルトは交響曲よりピアノ協奏曲に興味があって、特に第21番、第24番、第27番はすばらしい。特に第24番は弦楽四重奏曲第14番や弦楽五重奏曲第4番とともに心にしみる感動させる名曲だと思う。まあ楽曲のほとんどが感動をもたらすベートーヴェンほどじゃあないけれどモーツァルトもそういう曲を作曲している。ぼくはモーツァルトはいろんな音色やハーモニーを聞かせて楽しませてくれる作曲家、ベートーヴェンは曲に美しさ、技巧だけでなく感動という物も持ち込んで楽しませてくれる作曲家と考えている。だからぼくはどちらかだけしか聞かないのはもったいないと思うんだ」
十郎は山北が熱心に説明するのを聞いていたが、実際のところは山北が例に挙げた曲を聞いて自分は感動できるのだろうかと思った。それを感じたのか山北は補足説明した。
「もちろん、すべての人が感動するわけじゃない。すべての楽章が感動的というわけではないし、誰が演奏しても感動するというわけではない。でも評価が高いレコードを洋子ちゃんの家にあるような装置で聞くと感動する可能性が高い」
「でも、ぼくたちはそういうわけにいかないね」
「そうだけど、洋子ちゃんのお父さんがレコードコンサートを開催してくれる限りはそういう恩恵を受けられる。でもいつかはなくなるからラジオを聞くなり自分でレコードを購入しないといけなくなる。それまでお父さんに耳を楽しませてもらう」
「そうだね、洋子ちゃんのお父さんがいつまでもレコードコンサートをしてくれたらいいね」
洋子の家の近くまで二人が来ると洋子が家から出て来た。
「二人とも時間通りに来てくれてありがとう」