プチ小説「長い長い夜 14」

十郎と山北は洋子に案内されていつものリスニング室に入ったが、いつもと違ってテーブルの上に焼き菓子が用意されていた。マドレーヌのようだった。洋子は歓迎の言葉を言ってからふたりにお菓子のことを説明した。
「お父さんが、このお菓子は不思議な効果があると言っていたわ。昔のことを思い出すそうよ」
「へえ、でもぼくたち小学生だから昔と言っても小学校の入学式くらいかなあ。桜がとてもきれいだったとか」
「私は2年生の時に遠足で行った府立植物園かしら。バラ園にいろんな色のバラが咲いていた。今年は動物園かしら。あら、お母さんお手伝いするのに」
母親は部屋に入って来ると、にこにこ笑ながらオレンジジュースを配った。それを見て洋子はぷりぷり怒って言った。
「お母さん、紅茶をお願いしたはずよ。本の通りにしないと昔のことを思い出せないわ。紅茶にマドレーヌをつけないと」
「でも紅茶にはカフェインが入っているからあななたちは飲まない方がいいわ。それに昔のことを思い出すことより、目の前のお友達と楽しく過ごせばその方がいいんじゃない」
「それはそうだけど・・・オレンジジュースじゃあ物足りないわ。ねえ、山根君」
十郎はいきなり自分のところにボールが回って来たので、ボレーシュートを放つのではなく取り敢えず受けとめた。
「ぼくも紅茶は今まで飲んだことがないんだ」
そう言って山北がパスを受け取って、シュートを放った。
「はちみつは赤ちゃんや幼児には良くないみたいだよ、牛乳をたくさん入れれば紅茶もいいんじゃないかな。ジュースもがぶがぶ飲んだら病気になるみたいだよ。ここは井戸水が飲めておいしいから水がいいよ。でもせっかくぼくたちのために出していただいたからいただこう。おばさん、いつもありがとうございます」
「ありがとうございます」
そう言って、ふたりは久しぶりに飲むジュースをがぶがぶ飲んで、マドレーヌも立て続けに2個食べた。
ジュースのお代わりを持って来るわと言って母親がいなくなると洋子は話した。
「山北君から聞いたと思うけど、今日は私が選んだレコードをふたりに聞いていただくのよ」
「洋子ちゃんが好きなモーツアルトとベートーヴェンの特集と言ってある。山根君は好きな曲あるの」
「モーツァルトはトルコ行進曲と子守歌くらいかな。ベートーヴェンは「君を愛す」かな」
「わたしも「君を愛す」好きだわ。君を愛す。君が僕を愛してくれるように、なんて、いい感じだわ」
十郎は父親が「君を愛す」が好きだと言っていたので口から出ただけだったが、意外な反響があったので驚いた。山北が時計を見て、洋子に尋ねた。
「それで今日は洋子ちゃんが好きな曲を掛けてくれるんだね。曲目は何かな」
「お母さんから1枚ずつと言われているから、モーツァルトは大好きなフルートとハープのための協奏曲よ」
「きれいな曲だね。ぼくも大好きさ。大きなスピーカーだとハープの音が響いて心地よいし。洋子ちゃんはこの曲のどんなところが好きなの」
「ランパルさんとラスキーヌさんが独奏をしているけれど、特にカデンツァ、ソロ楽器が即興演奏するところよ、が素晴らしいわ」
「そうか、楽しみだな。それでベートーヴェンは」
「これも私が好きな曲なんだけど、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲よ」
「カラヤン指揮でリヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチがソリストのレコードなのかな」
「いいえ、インバル指揮でソリストはアラウ、シェリング、シュタルケルよ。私、シュタルケルのチェロの太い音が大好きなの。バッハの無伴奏組曲、ベートーヴェンやブラームスのチェロ・ソナタよりこのレコードがずっと好きなの」
洋子の母親も一緒に聞かせてもらうと言って、折りたたみ椅子を部屋に持ち込んで腰掛けた。2枚のレコードを続けて聞いたが、70分程だった。
終わりの頃になると洋子の父親が帰って来た。父親はにこにこ笑いながら十郎と山北に洋子の活躍ぶりを尋ねたが、これからは洋子が主催することが多くなると言った。
「主催って何をするの」
「企画(選曲)、会場設営、曲の解説なんかよ。でも私もたくさん名曲を知っているわけでないからお父さんに教えてもらいながら開催するつもりよ」
「そういうことだから、君たちは娘がへこたれないようにせいぜい励ましてほしい」
「わかりました。でもたまにはお父さんも復活してください」
「そうだね、たまにならいいかな」
父親が母親に視線をやると母親は笑顔で頷いた。