プチ小説「こんにちは、N先生 107」

私は最近体調が回復したので、大学図書館の帰りは阪急西院駅まで歩くことが多くなりました。帰り道に2つ楽しみがあって円町の丹波屋で豆餅や桜餅や餡団子やみたらし団子を購入することとごはん日和西大路御池店でオムライスや惣菜を買うことですが、どちらも西大路通沿いなので気軽に寄ることができます。丹波屋で味噌餅を購入して、西大路通を南へと歩いているとN先生がにこにこ笑顔で近付いて来られました。
「君はこれからごはん日和でオムライスを買うのだろうが、胡麻団子や豆腐ハンバーグや玉子焼きも美味しいよ」
「ええ、特にオムライスは母親が好きなのでたまに買います。胡麻団子と豆腐ハンバーグは美味しかったです。玉子焼きも美味しいのなら、一度買ってみようかな」
ごはん日和でN先生はチャーハンと玉子焼き、私はオムライスを2つ買いました。西院駅に向かって歩いていると先生はまた笑顔になって言われました。
「ところで君は私の著書を購入してくれたようだが、いつ読んでくれるのかな」
「この前の土曜日に日本の古本屋、新品でなくて申し訳ないです、で申し込んだところでまず在庫確認をして在庫があれば入金してくださいの連絡があり、入金したら3、4日で届きます。今、泉井久之助訳『アエネーイス』(岩波文庫)を読んでいるところなので、6月の終わり頃でしょうか。でも読み終えられるか少し心配です」
「でも君は昨年の夏に、『オデュッセイア』『イーリアス』を読んだんだろ、他にも世界の名作をいくつか読んで感想文を書いている。ネットを見ると検索でいくつかかかる。君の感想は読みやすいから、ぼくはよく読むよ」
「ありがとうございます。でも仮に検索に載せてもらっても本を買ってもらって読んでもらうように行かず、結果がわからないのでこのままでいいのかと思います」
「反応がわかるのは必要かもしれないが、それは必ずしも君にとってうれしいものとは限らないよ。むしろたくさんご意見をいただいたとしても厳しい指摘の方が多いんじゃないかな。君は精神的に弱いところがあるから、少しでも厳しいことを言われると打ちのめされてしまう。だから賞賛や経済的に潤うことは考えないでこれからも地道にやって行くのがいい」
「でも先生、ぼくが小説家になれたらいいなと思って、『こんにちは、ディケンズ先生』の原稿を出版社に送ったのが、2010年の年末でした。それから14年経過していますが、まだ待たないといけないんでしょうか」
「それは君が何を求めて集中して頑張るかということだと思う。もし小説家になりたいのなら、小説だけを書いて原稿ができたら賞に応募するなりすればいい。本を読んで感想文を書いているだけでは道は開けないと思うよ」
「でも先生ぼくは一日中原稿ばかり書いているのは無理のような気がします」
「そうなると道は2つしかない。今まで通りで行くか。余生を楽しくするためにお金が許す範囲で遊ぶかだ。賞がもらえるなんて考えずに」
「厳しさが足りないのでしょうか」
「一流になる人はどこかで辛い思いをしているが、君にはそれがない。行き当たりばったりでたまによい兆候があれば、過剰な期待をする。がっくりしないけど、大きな喜びには届かない人生を歩んできたと言える。これからしばらく頑張れば大きな栄光が捕らえられると信じてしばらく小説ばかり書いている日々を送るか、それとも少しの楽しみを続けて平凡な人生で最後まで行くかだね」
「先生が研究されてきたクセノポンの『アナバシス』を一応読み終えたので、『ソクラテスの思い出』を読みました。ソクラテスはたくさんのお弟子さんに心のこもった受け答えをして導いたことがよくわかります。そうしてソクラテスの教えをいただいたお弟子さんたちの多くは後にギリシアを支える人物になって行きます。その中のひとりのクセノポンは軍人となり『アナバシス』に書いたような体験をして、文才を認められたのか、スパルタで荘園の領主となってライターになり、『ソクラテスの思い出』や歴史書などを残しています。多分、他のお弟子さんと同じようにソクラテスの側にいて、先生が教える珠玉の言葉を聞いているだけでは人々が読みたくなるような本を書くのは難しいと考えたのだと思います。そうして一念発起し従軍して体験記を書き、ソクラテスのエピソードを紹介したりしました。直接クセノポンさんに確認したいところですが、ぼくが考えるに軍人になった時から先のことは計画していた気がします」
「そうかもしれないが、今から君が読者が興味を持つような体験をするというのは無理だろう」
「そうです、懸賞小説に応募して賞を取るしかありません。それに親の介護もありますし、経済的にはかつかつでやっています。だから楽しい体験がしたいと思ってもできません」
「それでも5月と6月は、クラリネットの先生のコンサート、小澤一雄氏の個展、LPレコードコンサート、ディケンズ・フェロウシップの春季総会、クラリネットの発表会があっていつもと違う体験ができるかもしれないよ」
「何もなく終わることが多いですが、少しは期待したいですね。そうしてこういう日々を送りながら本を読んで感想文を書いて、何か触発されるものがあればそれをエネルギーとして小説を書こうと思っています。ぼくは湧き出る泉のように文章が書けるわけではありませんから、心の奥底から湧き出て来るのを待つしかないのです。毎日無駄なことをしているようで、必要なことをしているんですよ」
「君には何を言っても無駄だなと言いたいところだが、もう少し小説を書く時間を作ったらどうかな。私の著書を早く読んで感想文を書いてほしいが、今すぐ読んでとは言わないから」