プチ小説「こんにちは、N先生109」

私は毎年ディケンズ・フェロウシップの春季総会に参加しています。数年前までディケンズ・フェロウシップは春季大会と秋季総会があったのですが、コロナ禍の影響からか平成23年度からはディケンズ愛好家の集いは年一回になりました。私は2011年に『こんにちは、ディケンズ先生』を出版して以来ほとんど参加して来ましたが、今年は岡山市にあるノートルダム清心女子大学での開催ということで、懇親会に参加しても日帰り可能ということで参加させていただくことにしました。岡山へは新幹線で行くこともできてそうすれば短時間で行くことが出来るのですが、私は新快速などの在来線を乗り継いで行くことにしました。JR摂津富田駅で各駅停車に乗り、新大阪駅で新快速に乗り換えました。相生駅で乗り換える前にトイレに行っておこうと1号車に行ったところ、トイレの近くの席にN先生がおられたのでした。N先生が本を読んでおられたので、私は用を済ませてから声を掛けました。
「N先生、これからどちらかへお出掛けですか」
「いや、君がぼくの著書『クセノポン ギリシア史』読んでくれたんで、どうだったか聞こうと思って・・・」
「そうですか、でも読み終えて10分位しか経っていないので...読み終えてすぐに姫路で新快速に乗車されたのですか」
「いや、人の行動はある程度の予想がつく。残り20ページ程になっていたから、摂津富田駅から電車に乗ってすぐにずっと読み続ければ相生に着く前で読み終えられると思ったんだ」
私はなぜ残り20ページになったことがわかるんだろうと不思議に思いましたが、何も言いませんでした。
「で、どうだったのかな」
「先生が古代ギリシア語を翻訳された御本は面白いストーリーがある小説のようなものではありませんでした。どちらかというと歴史的な事実を列記してその中に少し興味深い話があるという感じでした。例えば、イアソンという人が登場して『諸君の場合も危機に陥ったときに勝利を収めたのだということが、わからないのだろうか。だからラケダイモン軍も生命の危機に瀕すれば、必死に戦い抜く、と考えるべきではないだろうか。さらに神というものは、時として小なるものを大きくなさったり、大なるものを小さくなさったりして、悦に入っているように思われる』と言ってテバイ(テーベ)人に自制を求め、ここからイアソンが際立つ人物になるのかなと思っていましたが、すぐに7人の若者に切り殺されます。こんな感じで突然現れた英雄になりそうな人物が一時的に盛り上げたと思ったら、すぐに殺害されます」
「他にはどんな人が殺害されるのかな」
「先生のご著書ではアルキビアデスは殺されませんがすぐに出て来なくなります。アルキビアデスはソクラテスの弟子で才能豊かな人だったようですが、簡単に寝返るところが嫌われて暗殺されるのですが、半生を興味深く書くことが出来たかもしれません。でもクセノポンはそんな風にアルキビアデスを描きませんでした。そんな感じで、登場したこの人が話を面白くしてくれるのかなと思っているとすぐに画面から消えてしまうという感じです。先生の人名の索引はその人がどのようなことをしたのかを知るのに便利ですが、興味深い人物はあまり出て来ないようです。ペロポネソス戦争を終結させたと言われるエパミノンダス(エパメイノンダス)もレウクトラの戦いで斜線陣を採用して大活躍したはずですが、スパルタで暮らしているクセノポンは讃えるわけに行かず彼の活躍が充分に描かれていない気がします」
「確かにクセノポンはスパルタで世話になっていたから、敵国テバイの将軍エパミノンダスが活躍するレウクトラの戦いについて書きにくかったかもしれない」
「クセノポンは『アナバシス』のようにギリシア人傭兵をスパルタ近くまで大過なく誘導してスパルタから評価され収入を保証されて、『ソクラテスの思い出』『アナバシス』などの著作を書き上げますが、『ギリシア史』はペロポネソス戦争についての歴史書を残そうとトゥキディデスが『戦史(歴史)』を書き始めたのですがペロポネソス戦争のすべての経過を残すことができず、その後をクセノポンが引き受けて書いたと言われています。多分、クセノポンはソクラテスの弟子なので文章を書くのは上手だったのかもしれませんが、歴史学者ではないですしスパルタの機密事項を知ることができる立場ではなかったように思います。ペロポネソス戦争のスパルタのよい面だけを書き残すようにと言われたクセノポンがトゥキディデスやヘロドトスのような資料が手に入らないまま各国の思惑が複雑に入りまじった戦史を書くように強く言われていろいろな苦労をしながら書き上げたのがこの『ギリシア史』だと思うんです」
「でも文章力がある人はよい作品を残している。クセノポンの場合は『ソクラテスの思い出』と『アナバシス』は昔から興味を持たれてきた。ぼくがクセノポンの『ギリシア史』を翻訳して出版したのはトゥキディデスの『戦史』に続く部分がまだ翻訳されていなくて、しかもそれを書いたのがクセノポンだったので、翻訳することに決めたのさ」
「わかりました。ぼくとしてはクセノポンの『ギリシア史』に至る前の時代を描いたトゥキディデスの『戦史』を読んで先生の御本と比較してみたい気がします。多分読むのに1ヶ月以上かかると思いますが、それを読んでから先生の御本について感想文を書いてみたいと思います」
「いやいや、遠慮することはないから、とりあえず『ギリシア史』の生の感想を書いてみるといい」