プチ小説「長い長い夜 23」

十郎にとってとても長いと感じる夜を心地よく、時には感動的に過ごさせてくれる音楽はかけがえのないものとなりつつあった。それを身近なものにしてくれたのは洋子のお父さんが開催してくれるレコードコンサートだったが、学校の帰りに教えてくれる山北の名曲、名演奏家、名盤の情報も興味深くクラシック音楽をいろいろ聴いてみたいと思わせた。山北は恐らくほとんどは洋子や洋子の父からクラシック音楽にまつわる興味深い話や名曲の聴きどころを教えてもらうのだろうが、小学生とは思えない情報量にいつも驚かされた。ただ新しい演奏家には興味がないらしく、レコードと言うとほとんどが1960年代以前だった。山根は以前、1970年以降に名盤はないのかと尋ねたが、山北の答えはこうだった。
「だってマエストロ、ヴィルトゥオーゾと言われるのは、ヴァイオリニストならエルマン、ハイフェッツ、オイストラフ、グリュミオー、シェリング、リッチ、フランチェスカッティ、カンポーリそれからピアノならケンプ、バックハウス、グルダ、グールド、ギーゼキング、ベネデッティ=ミケランジェリで、1960年代までが全盛時代だったと思う。他にチェロならカザルス、フルニエ、シュタルケル、クラリネットならウラッハ、ド=ペイエ、、フルートならランパル、、ギターならイエペスがたくさんの名盤を残した。交響曲や管弦楽曲はカラヤン、ショルティ、アバド、ジュリーニ、カルロス・クライバー、マリナー、ハイティンクなんかがレコード誌を賑わしているけれど、ぼくは音楽は基本長い夜を快適に過ごすためのBGMだと思っている。例えば夜を快適に過ごしたいなら、オーケストラ曲ではなくピアノ曲、ヴァイオリンやチェロなどの独奏曲、室内楽曲だと思う。だから協奏曲なんかもコンサートで聞く曲だと思っている」
「レコードコンサートではいろんな曲がかかるね。交響曲、管弦楽曲、協奏曲もあるしピアノ曲、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ三重奏曲もある。どの曲もすばらしいと思うけどなぁ」
「そりゃー、大作曲家が後世に残そうと一所懸命頑張ったのだから、ぼくたちはそれを大切に聞いて残せるようにしないといけない。ここからはぼくの好みというものだから山根君に押しつけるつもりはないが、交響曲、管弦楽曲、協奏曲は編成が大編成で大きな音だから静かな夜を過ごすためのBGMには向かない気がする。ピアノ曲やヴァイオリン・ソナタや小編成の管楽合奏がいいと思っている」
「ぼくはいろんな編成のクラシックの名曲を聞きたいなぁ」
「そうだね、ぼくも最近までそう思ってた。でも毎日大編成の曲ばかり聞いているのは疲れる。仮に1日に5枚のレコードを聞くとしたら、大編成の曲のレコードは1、2枚にしてあとはじっくりと名演奏家の小編成の名盤を聞くのがいいと思うんだ。そうすれば大音量にうんざりして他のジャンルの音楽が聞きたくなることもない」
十郎は他の音楽と言えば歌謡曲くらいしか知らなかったから、山北が言うことが正しいのか判断できなかった。
「ベートーヴェンの交響曲はたくさんの全集が出ているけれど、3、5、6、7、9以外はあまり演奏されることがない。モーツァルトも第41番まで交響曲があるけれど演奏されるのは第35番から後の後期交響曲と言われるものだ。ブラームスの4つの交響曲はすべてすばらしいが、シューマン、メンデルスゾーン、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、ブルックナー、マーラーが作曲したすべての交響曲がすばらしいとは限らない。それよりも旋律の美しさが際立つ小編成の曲をじっくり聞く方がいいと思うんだ」
「どんな曲がおすすめなの」
十郎がおすすめという言葉を使ったので山北は苦笑いをした。
「やっぱりベートーヴェンのピアノ・ソナタとショパンのピアノ曲が最初に思い浮かぶ。ベートーヴェンのピアノ・ソナタだと4、8、14、15、17、21、23、26、30、31、32あたりかな。ヴァイオリン・ソナタは5、9の他2、4もいい。チェロ・ソナタは1、2、3」
「室内楽は何がいい」
「弦楽四重奏曲は7、9、10かな。七重奏曲もぼくは好きだな」
「モーツァルトはピアノ・ソナタもヴァイオリン・ソナタも小編成の室内楽曲のどれもがすばらしいね」
「そうだなーぼくはモーツァルトのピアノ協奏曲より旋律がきれいな小編成の曲の方が好きだな。特にピアノ・ソナタは第8番、弦楽三重奏曲、弦楽五重奏曲3、4、クラリネット五重奏曲は美しい旋律に満ちている」
「シューベルトは即興曲がいいね」
「それからピアノ・ソナタ20、21、さすらい人幻想曲もいい。室内楽曲ではアルペジョーネ・ソナタ、弦楽四重奏曲14、弦楽五重奏曲、八重奏曲、ピアノ三重奏曲2、ピアノ五重奏曲だね」
「他にもたくさんあるんでしょ」
「そうだね、学校と山根君の家を3回往復しても終わらないかもしれない。残りはおいおい説明させてもらうよ」
「わあ、楽しみにしているよ」