プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生63」
翌朝、小川は秋子に、アユミさんと3人で出掛けないかと尋ねた。秋子はアユミの了承を得て戻って来た。
「今日はお昼から、アユミさんから子供たちに少しピアノのことを教えてもらおうと思っているから、午後3時には
家に戻りたいわ。隣のおばさんは、いつでも子供を預かるよと言ってくれるけど、そんなに長くは無理だわ。そうねぇ、
午前10時に出掛けて、午後2時くらいまでなら大丈夫よ」
「でも、しばしばお世話になっているけれど、周りに親戚がいないぼくたちにとってはほんとにありがたい存在だね」
「そうね。でも、隣のご夫婦は年金生活者で子供さんもお孫さんも大きいって言うから、きっと私たちの子供と遊ぶのが
楽しいのだと思うわ。だって、しばらく子供の面倒を見てほしいと言うと、いつも決まってうれしそうに喜んで
お預かりしますと言ってくれるもの」
「そうか、それなら何かお世話になっているお礼を考えないといけないな」
「そうよ。わたしたちがなんとか10年間も東京暮らし出来たのは、周りの人の支援があったから。このお礼を
なにか、それはきっと最初は一見して無意味なようなものになるかもしれないけれど、誰かのお役に立てればと
思うのよ」
「そうだね。ぼくも協力するよ」
「ありがとう」
3人は隣の夫婦へのお礼の品を購入すると、昼食のために近くにある讃岐うどんの専門店に入ろうとした。小川が
入口に差し掛かると突然、猛烈な勢いで男が飛び出して来た。出会い頭に衝突した小川はそのまま背中から地面に落ち、
2回転して止まった。そのままどこかに行こうとした若者の前にアユミが立ちはだかった。
「あなた、人を突き飛ばしておいて、なにも言わないの。なんとか言ったらどうなの」
「うるさい。ばかやろう」
そう言いながら、若者はアユミに手を振り下ろしたがアユミは素早く躱し、いつの間にか若者の後ろに回り両腕を
掴んでいた。アユミが生姜煎餅を粉々にした、万力のような手で締め上げると若者は、ごめんなちゃいと目に悔し涙を
浮かべてその場から走り去った。
「アユミさん、ありがとう。でも、アユミさんって...」
「そうね、人間離れしているってよく言われるわ。最近は、主人が天井から逆さ吊りにして腹筋ができるようにしたから
今まで以上に筋肉が付いてしまったわ」
「アユミさん、前から聞きたかったんだけれど、そんなに身体を鍛えるのは何かわけがあるんじゃあ...」
小川がそう話し出すとアユミは厳しい表情になって言った。
「あなたは私の古傷に触れたわね」
「おおーうっ、そ、そんなつもりでは、な、なかったのだけれど...」
「アユミさん、ごめんなさい。小川さんが失礼なことを言ったのだったら、謝るわ」
「ま、これを機会に私のことを少し話しておこうかな。少しそこの公園のぶらんこのところで。その前にごはんかな」
「......」