プチ小説「青春の光 118」
「は、橋本さん、前回の船場さんからの依頼についてどう考えられます」
「わしはクラシック音楽観賞を趣味の1つとすることは人生を豊かにするから有意義なことだと思う。だがここで1つ困ったことがある。田中君もわしも今まではクラシックの「ク」の字も話したことがない。それが突然40年以上クラシック音楽を楽しんで来た人のように話すのは変じゃないだろうか」
「それはじきに慣れると思いますよ。それより第1回目となる今回はどのようなことを対談すればよいのでしょうか」
「船場君がこの前こっそり教えてくれたのは、名曲、名盤、名演奏家その他クラシック音楽に関係することなら何でもよい、ただお二人の個性が光るようにと言っていた」
「あれこれ考えていても始まりません。とにかく始めてみましょう。少し違った切り口がないと飽きられてしまうことは確かでしょう」
「わしはクラシック音楽2つに分けられると考えるんだが、わかるかな」
「器楽曲と声楽曲ですかそれともオーケストラ曲と小編成(カルテットとか)、独奏曲(ピアノとか)ですか」
「わしは指揮者がいるのといないのとで分けるというのを考えてみたいと思う」
「ピアノ独奏や弦楽四重奏曲は指揮者の必要はないと思いますがやはり10人以上となると指揮者は必要になると思います」
「そう、例えばモーツァルトのグランパルティータ(13管楽器のためのセレナード)はオーボエ、クラリネット、バセットホルン、ファゴット各2とホルン4とコントラバスまたはコントラファゴットの13の楽器で演奏される曲で小編成だが、指揮者がいる。一方ベートーヴェンの七重奏曲やシューベルトの八重奏曲には指揮者はいない。だからどちらもヴァイオリンかクラリネット担当のメンバーがリードするのだと思う」
「モーツァルトのピアノ協奏曲はピアニストが指揮者を兼務することがありますね」
「でもピアニストがピアノを弾かない時は指揮をしているから指揮者がいないということにならない。わしが感心するのはイ・ムジチ合奏団でヴィヴァルディやモーツァルトのオーケストラ曲を指揮者なしで演奏していることだ。だがわしはイ・ムジチ合奏団がモーリス・アンドレやマクサンス・ラリューやハインツ・ホリガーなどの名手と一緒に録音したバッハのブランデンブルク協奏曲はばらばら感があって好きではない。いつも近くで練習するメンバーだけで編成されている場合は問題ないが外から名演奏家が来た場合アンサンブルがうまく行かないことがあるように思う。アンドレやホリガ―であってもだ。一方クレンペラーが指揮したブランデンブルク協奏曲は安心して聞ける気がする」
「でもぼくはアーヨがコンサート・マスターをするヴィヴァルディの「四季」は指揮者が付いているオーケストラのどの演奏よりもすばらしいと思うのですが、橋本さんは嫌いですか」
「わしも好きだが、このレコードはアーヨがうまく楽団員をまとめて緻密なアンサンブルを可能にしたからで、アーヨが指揮したと考えられなくもない。もちろん指揮台に立ったというのではなく細かい指示を与えたというのにとどまるが、後のコンサート・マスターのミケルッチやカルミレッリはそのような密な楽団員への指導はなかったのではないかとわしは考える」
「これは間違いないことですが、アーヨがコンサート・マスターをした1959年録音のヴィヴァルディの「四季」はフィリップスレコードの金字塔と言えると思います」
「その通りだが、クレンペラーのブランデンブルク協奏曲のEMI盤ももお勧めだから心の片隅にでも置いておいてください」