プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生64」

3人が公園のぶらんこに腰掛けると、アユミが話し始めた。
「私が小学生の頃、両親と繁華街に出掛けたことがあるの。その時もさっきのように出会い頭に私の父が若い人と
 すごい勢いでぶつかったの。今のように鍛えてなかった、もちろん柔道も空手もまだ習っていなかった私は何も
 できずに成り行きを見ていた。そのままどこかに行こうとしたその若い人を、父は呼び止めて謝るように言ったの。
 それでどうなったと思う」
「さあ、わからないわ。それでどうなったの。どう、小川さんならわかるかしら」
小川はしばらく口元に右手を翳してアユミを見ていたが、降参だ先を話してという素振りを見せた。
「一旦姿を消したその若い人が友人を連れて戻って来て、大変な騒ぎになったの。警察の人がやって来て、収拾して
 くれたから、大事に至らなかったけれど。でも、もう少し前の段階に相手に圧力をかけていたら、父も殴られずに
 済んだのにと思うの。3才の頃からピアノを習っていたけれど、そういうことがあったんで、愛する両親を守って
 あげるために、少しピアノのお稽古はお休みにして柔道と空手を習い始めたの。それでも音大に行きたかったから、
 高校生になってからは猛勉強して昔の感覚を取り戻して音大のピアノ科を受験したの。秋子とは高校の同級生だ
 けれど、東京にある大学だったから、一人暮らしが秋子より長い。小川さんは私が年上のように見えるかもしれない
 けれど、秋子の方が数ヶ月年上になるのよ。音大に入学してすぐ、プロレス愛好会の看板を見て血が騒いだので、
 入部を希望したの。でも、今のところ女子プロは養成していません。なんなら私をあなたと同じレベルになるまで
 鍛えて下さいと主人に言われたので二つ返事で応えたのよ」

アユミは土曜日にやって来て、月曜日に帰ることになっていたので、日曜日の夜、小川は書斎で寝た。床に入って
しばらくは今日の出来事を反芻した。
「それにしても、アユミさんの隠れた一面を知ることができてよかった。これを機会にアユミさんとの理解が深まれば
 良いと思うが...。子供たちもアユミさんを慕っているし、秋子さんの演奏のパートナーとしても欠かすことはできない。
 とにかく仲良くやっていかないと...。ぐー、ぐー」
眠りにつくとディケンズ先生が現れた。
「小川君、今日はアユミさんの隠れた一面が見られてよかったね。けれども...。いや、よそう」
「先生、そんなふうに一度言いかけたことをやめられると、とても気になるじゃないですか」
「それじゃー、お酒と憧れのもう一人の男性というのをヒントにしてくれたまえ。このことは本人に聞くよりも
 このことを知っている秋子さんからまず話を聞くのがいいだろう。そうそう、忘れないうちに言っておくけど、
 アユミさんはお酒を飲むと別人になるというのは何があっても変わらないだろう。ご主人もそのことを受け入れている
 くらいなのだから」
「......」