プチ小説「長い長い夜 25」
録田さん宅訪問は翌週の土曜日となった。録田さんは、その日は半ドンだから午後3時くらいに家に来てほしいと言われた。山北が十郎の家に行って、一緒に録田の家に向うことになった。録田の家に向う途中で山北は言った。
「録田さんにぼくたちが聞きたい曲を伝えようとしたけど。録田さんは、今回はぼくがエアチェックをするようになった経緯なんかを話したいから、リクエストは次回にしてほしいと言われた」
「そうか、その方がいいんじゃないかな。録田さんがお好きな曲ばかりを聞けるんだから。録田さんは別に現代音楽ばかり聞くというわけじゃないんだろう」
「うん、バロック音楽、古典派、ロマン派とまんべんなく聞くらしい。オーケストラ曲、室内楽のアンサンブル、独奏曲も偏りがない」
「問題は再生装置だけど、どうなっているのかな」
「将来は洋子ちゃんのお父さんみたいな装置でアナログレコードをじっくり聞きたいみたいだけど、今はFM放送が充実しているからそれでクラシック音楽を楽しみたいと言っていた」
「そうだね、ぼくたちは平日の昼間にFM放送を聞くことはないからクラシック音楽ばかりでも気にならないけれど、ジャズやポップスを聞きたい人は昼間は民放を聞くしかないというのは・・・でも今(1970年頃)はクラシック音楽のブームと言えるし」
「その恩恵を受けられたらなあ、きっとぼくらが成人するころには他のジャンルの音楽もお昼に流れるようになってクラシック音楽のたくさんのレコードを聞くチャンスがなくなり他の音楽で我慢するしか・・・そんなクラシック音楽をエアチェックする人のためにチューナーや留守録用のタイマーもいいのが出ている。さあ、着いたぞ」
録田の家は30坪くらいの一戸建てで築後2、30年経過しているように見えた。呼び鈴を押すと主人が現れた。
「おじさん、今日はよろしくお願いします」
「今日はゆっくりして行きなさいと言いたいところだけど、まあ夕方くらいかな。でもそれまでは寛いで行きなさい」
「こちらはクラスメイトの山根君です」
「こんにちは、今日はクラシック音楽が聞けるんで楽しみです」
「そうか、君もクラシック音楽が好きなんだね。どんなのが好きなのかな」
山北から録田が大切にしてそうな、エアチェックしただろうと思われる曲を言うようにと言われていたのでそれを言った。
「ブレンデルとクリーヴランド四重奏団員のシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」が好きです。ブレンデルの音は地味ですが、正確で安心して聞けます」
「そうか、ブレンデルが好きならおじさんと話が合うだろう。ブレンデルのピアノ独奏でシューベルト「さすらい人幻想曲」というのがあるが、山根君は聞いたことはあるかな」
十郎は先週木曜午後9時からの民放FMのクラシックの番組でその曲がかかったことを思い出した。
「その曲はたまたま先週聞きました。この難しい曲をミスなしに最後まで演奏したブレンデルってすごいなと思いました。でもあの演奏はライヴだからもう一度聞くというわけには行きませんね。レコードはあるのかな」
「フィリップスからレコードは出ているが、民放の番組で放送したライヴがレコードになることはないだろう。でもおじさんがエアチェックしたから聞きたくなったら家に来るといい」
おじさんがいつもと違ううきうきした調子で話をするので、山北はうれしくなって言った。
「ぼくもその演奏を聞きたいなあ。次回でもいいから聞かせてください」
「いや、今から聞こう」
十郎と山北は顔を見合わせて笑顔を交わしたが、録田は素早くそのカセットテープを取り出して、ではまずはブレンデルさんのピアノ独奏でシューベルトのさすらい人幻想曲を聞いていただきますと言った。録田のステレオ装置はケンウッドのロキシーG3だった。「さすらい人幻想曲」が終わると録田は言った。
「いずれはアンプ、スピーカー、プレーヤーを買い替えたいけれど資金がないので、しばらくはエアチェックで我慢するしかない。でも10年以内には購入するから、購入したら聞かせてあげよう。今日はシューベルトの特集にしようかな」
「どんな曲を聞かせてもらえるのですか」
「アルペジョーネ・ソナタをまず聞いてもらおうかな」
山北が渋い顔をしたので、録田は尋ねた。
「この曲がきらいなのかな」
「この曲はロストロポービッチしか知らないんですが、他にいいのがありますか」
「ずっといい演奏がある。シャフランがチェロを弾いているのがある。こっちはやわらかい演奏だから好きになるんじゃないかな」
聞き終わると山北はいいものを聞かせてもらったとお礼を言った。録田は気を良くして次の曲を紹介した。
「おじさんはシューベルトの室内楽曲が大好きなんだ。弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」は暗すぎるし、八重奏曲は長すぎる。ピアノ曲は長いのが多いからどうしようかと思っていたら、「さすらい人幻想曲」とアルペジョーネ・ソナタを掛けることが出来た。後は即興曲8曲を今から聞いてもらおうと思うけど誰の演奏がいいかな」
「ケンプと同じくらいシューベルトのレコードをブレンデルは残していますが、やはり昔から愛聴されてきたのはケンプの演奏だと思います」
「おじさんもケンプの演奏がいいと思うのだけれど、なぜかケンプの演奏はエアチェックできない。レコードが聞けるようになったら、まずケンプが演奏するシューベルトの即興曲を聞きたいものだ。おじさんが録音しているのはノエル・リーと言う人が演奏したものだ。ヴァロワというフランスのレコード会社が録音したものだ」
ノエル・リーの演奏はやさしくて、十郎も山北も好きになった。壁に掛けてある時計を見ると午後6時を少し過ぎていた。おじさんにシューベルトの音楽をカセットテープで聞かせてもらったお礼を言うとおじさんは、またおいで。次はミュンシュを聞こうと言った。