プチ小説「長い長い夜 26」
十郎はその日もクラシック音楽を話題にして山北と帰途についていたが、駅の前を通りかかると後ろの方から声がした。
「クラシック音楽のことで聞きたいことがあるから、時間をいただけないかしら」
二人が振り向くと奥山先生がにこにこ笑顔で話を続けた。
「実はそろそろ発表会で演奏する曲を考えないといけないんだけど、先生まだ習い始めてあまり時間が経っていないからどの曲がいいか迷っているの」
「ぼくたちとしてはこの前先生にお話しした曲くらいしか知らないけど、先生がこうしてわざわざぼくに声を掛けてくださったのは何か思いつかれたのですか」
「思いついたのではなくて、レッスンを受けている先生から言われたことでいろいろ選択肢が広がったようで嬉しくなってそれで、山北君と山根君に声を掛けたの」
「???」
「この前はクラリネットで演奏するのをよく聞く小品を二人で考えてくれた。「ユモレスク」「ロンドンデリーの歌」「トロイメライ」は一度発表会で演奏したいと思ったわ。そう思っていたら、この前のレッスンで先生が発表会のことで興味深いことを話してくださったの」
「どんなことを説明されたのですか」
「ところで山北君と山根君に訊くけど、クラリネットがフルートと一番違うところはどこだと思う」
「横から息を入れるとかですか」
「それもあるけど、調性のことだと何かな」
「よくB(ベー)管と言われるけど詳しくはB♭管ということで、C(ド)の音を吹くとB♭(シ・フラット)の音が鳴りますね。このことですか」
「ピンポーン」
「だからフルートの楽譜をそのままクラリネットで演奏すると伴奏と合わないということになるの」
「じゃあ、歌曲なんかもそうですね。ピアノ伴奏での演奏は無理なんですか」
「そう思うでしょ。でもあることをすれば歌曲やフルートの楽譜もクラリネットで演奏可能になるの。♯をふたつつけて、一音(二度)上げるとその楽譜のピアノ伴奏つきでの演奏が可能になるの」
「C管クラリネットで吹くのと同じになるのですね」
「そ、そうなるのかな。先生からのそのことを聞いて、それまで好きで買った歌曲やオペラのアリアの楽譜が無駄にならずに済むと思ったの。そのまま吹く分には問題がない。でもピアノ伴奏はつけられないとあきらめていたのだけれど、♯を2つつけて2度上げればビアノ伴奏が可能になるんだから」
「でも楽譜の書き換えにすごい時間がかかるんじゃないですか」
「でもできるんだったら、それくらいの労力は惜しまないわ」
「どんな曲を演奏したいのですか」
「私、昔、モーリス・アンドレというトランペット奏者がオペラのアリアを吹いたというアルバムを持っていて、いつか、トランペットでなくてもいいから、レハールの「君はわが心のすべて」(歌劇「ほほえみの国」から)とベッリーニの「清らかな女神よ」(歌劇「ノルマ」から)を演奏してみたいと思っているの。それからシューベルトの歌曲もいくつかピアノ伴奏付きで演奏してみたいと思っているの」
「そうか、その方法を知っていれば、クラリネット用の楽譜でなくてもオペラのアリアの楽譜を買って来て書き換えればクラリネットでの演奏が可能になるわけだ。そうなるといっぺんにピアノ伴奏付きで演奏できる曲が増えますね」
「そうなの、だから数年経ってピアノ伴奏付きで一人で演奏できるようになったら、その2曲を演奏してみたいの」
「先生、その日が来たら演奏会の日取りを教えてください。山根君と一緒に聞かせてもらいに行きますから」
「いつ頃聞かせてもらえますか」
「テキストが3冊あって、それを修了してからかな。多分、7、8年後くらいかしら」
「ぼくたち、先生からの連絡を待っていますので、へこたれないでください」
「もちろんよ。へこたれないって約束するから、忘れないでね」
十郎と山北は笑顔で頷いた。