プチ小説「こんにちは、N先生 111」

私は立命館大学西側広場にある弁当屋さんをしばしば利用するのですが、9月26日から再開したので久しぶりに行きました。以前は500円ほどでそこの弁当を買えたのですが、諸物価高騰のあおりでその弁当屋さんも一食633円となりました。それでも8種類の中から選択出来て美味しいのでこれからも利用しようと思っています。今日は茄子、ブロッコリー、カリフラワー、鶏の唐揚げの山賊焼き弁当を購入して近くにある藤棚の下にある席に座りました。しばらくするとそこにN先生がやって来られ、君は新訳の『大いなる遺産』を読み終えたようだが、どうだったと言われました。
「河合祥一郎訳『大いなる遺産』(角川文庫)のことですね。歯切れがよく明快で楽しく読ませていただきました。小学生の頃に児童向けの『大いなる遺産』(偕成社)を読んで以来、7冊目になります。と言っても偕成社の『大いなる遺産』について言うと小学生の頃は物語を読むほど読解の力がなく、登場人物の紹介のところを何度も読んでいました。大学生になって外国文学の翻訳を楽しめるようになってようやく山西英一訳を通読しました。でもほとんど内容を理解できていなかったと思います。今から20年程前、私が40台半ばの頃からもう一度世界の名作を読み直そうとディケンズやイギリス文学の名作を読み直し始めました」
「それが後に君が『こんにちは、ディケンズ先生』を出版する切っ掛けになったのかな」
「そうですね、大学時代に『大いなる遺産』『二都物語』『デイヴィッド・コパフィールド』『クリスマス・カロル』『オリヴァ・トゥイスト』を読みましたが、ディケンズの本当の面白さを理解していなかったと思います。再読することで、登場人物が身近になり物語を興味を持って読めるようになったと言えます。ピップ、アーサー、サマソン、オリヴァー、デイヴィッドの心境になりながら読んでいくと物語への興味が広がって行きました」
「そうして君はディケンズの小説の面白さはその登場人物が様々な興味深いシチュエーションで会話を交わすのが面白いと考えたんだね」
「そう思い始めて、ディケンズの長編小説は一通り読みましたが、特に『大いなる遺産』については佐々木徹訳が出版されてからは、石塚裕子訳、加賀山卓朗訳も出版され、今年の6月には河合訳が出版されました」
「どの訳がいいのかな」
「どの訳もすばらしいと思います。他に1967年に出版された日高八郎訳がありますが、やはり最初に読んだ山西訳に一番愛着があります。これは私の思い込みだと思うのですが、ピップとジョーの対話が他の訳より自然だと思うのです。この理由は最初読んだ印象が染みついているからだと思うのですが、エステラとの恋愛よりジョーとの友情を興味深く読んでいる私にはそこのところの翻訳が肝心の箇所となるのです。他にマグウィッチが負傷して亡くなるまでのところも感動的な名場面だと思います」
「そう言えば『大いなる遺産』はいくつかの物語がピップを主役として同時進行していると言える」
「そうですね、マグウィッチとコンペイソンの物語、エステラとミス・ハヴィシャムの物語、ジョーとピップの物語、ジャガーズとウェミックとピップの物語それからハーバートとピップの物語、他にビディ、ポケット夫妻など魅力的な登場人物が場面を変えて次々と登場します」
「オーリックやドラムルの悪役も憎たらしい。ところで君はこの小説のハイライトシーンはどこだと思う。もちろんひとつではないだろう」
「そうです。よく言われるのはエステラとのラストシーンですが、それ以外にも印象に残るシーンはいくつかあります。さっき言いましたマグウィッチが亡くなるシーンのところでは私はいつも目が潤んでしまいます。ユーモラスなところではウィミックの家にピップが招待されるところとウェミックとミス・スキフィンズとが結婚するところがあります」
「ピップがオーリックに襲われるところも印象的だ。大いなる遺産を授けた人がピップを訪ねて来るところも。こういう場面でこの登場人物はどんなことを言うのかという興味が山積みになって読者を楽しませているので最後までワクワクして物語を読める。その最たるものが『大いなる遺産』と言える」
「N先生がおっしゃられる通りだと思います。私は『大いなる遺産』の新訳が出版されるのを楽しみにしているんです。新訳は別の角度から読むことを提示してくれるように思うんです」
「例えばどんなところかな」
「やはりラストシーンでしょう。私は最初ピップは終始エステラに冷たくあしらわれて、最後に「ずっと友達でいましょう」とおつき合いしたいとの申し出を断られると最初読んだ時には思っていたのですが、ロンドンに出てすぐピップはリッチモンドでエステラと楽しく過ごしています。エステラがドラムルと結婚してピップは辛い思いをしますが、エステラもよい家柄だけで決めた結婚に後悔してしかも夫ドラムルから虐待(残酷な扱い)を受けたりして別れます。そうして30代後半から40代前半の頃にラストシーンの場面となるのですが、エステラが言う「離れ離れでもずっとお友達でいましょう」ではなく、ピップが回想する「別離の影はもはや見当たらなかった」というのが結末なんだと思います」
「そう考えると『大いなる遺産』はハッピーエンドと言えるね。これからも君は『大いなる遺産』の新訳が出たら読むのかな」
「もちろんそうですが、私が一番翻訳してほしいのは『リトル・ドリット』なんです。私が『大いなる遺産』の次に好きな小説なので小池滋訳しかないのがとても残念です。たしかにヒロインエイミーは大人しく目立ちませんしクレナムも債務者監獄に入れられたりして暗い場面が続く小説ですが、最後はクレナムがドイスと一緒に会社を経営しますしエイミーと結婚してハッピーエンドで終わります。充分に楽しめる内容で登場人物も魅力的(フローラのファンなんです)なので翻訳家の先生方に頑張っていただいてなんとか『リトル・ドリット』を世界の名作にしてほしいと願うのです」