プチ小説「長い長い夜 27」

奥山先生がもう少しなら大丈夫よと言ったので、十郎は山北と一緒にクラリネットの話を続けた。
「先生はクラリネットを習っておられますが、元々はトランペットが好きだったのよと言われたことがあります。さっきもモーリス・アンドレのオペラのアリアを演奏したアルバムの話もされていました。なのになぜ今トランペットを習わないで、クラリネットを習われているんですか」
奥山先生は山北の話を聞いてにこにこ嬉しそうな顔になって言った。
「トランペットが好きになったのは、モーリス・アンドレのそのアルバムに尽きるわ。浪人生になってすぐにどうしようか将来不安という時にたまたまそのアルバムの広告がFM誌に載ったの。トランペットでオペラのアリアを吹きまくるとあってたまたま聞いて好きになっていたモーツァルト「魔笛」の中の夜の女王のアリア「復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え」がその中に入っていたしそれで気持ちが晴れるならレコードを1枚くらい買ってもいいかと思ってすぐに買ったの。家にあったステレオはシャープの白馬という古いステレオだったけど充分に楽しめた。それでこれからも頑張ろうという気になったの。そうしていつか時間とお金が少し持てるようになったら、マイ楽器を買ってトランペットのレッスンを受けてもいいかなとその時は思ったの」
「それだけトランペットが好きになられたのにクラリネットのレッスンを習われているのはどうしてなのかな」
「まあ、焦らないで私の話を聞いて。モーリス・アンドレが好きになったから、オルガン奏者と共演した人気曲の小品集やテレマンのトランペット協奏曲も聞いてみたけどオペラのアリアのように夢中になって聞くことはなかった。それでジャズのトランペット演奏を聞いてみたけれど、アンドレさんのように夢中になれなかった。それで就職して落ち着いて楽器のレッスンを受けようと思った時に他の楽器も検討しようと思ったの。やっぱりトランペットは大きな音が出るから、学校のブラスバンド部に入ったら安心して練習できるけど家ではとても練習できない。サックスも同じように大きな音が出る。でもほんとのところはクラリネットも結構大きな音が出るようだけど」
「そうなるとヴァイオリンやギターのような弦楽器かフルートかクラリネットになるかな」
「なぜ弦楽器を選ばなったのですか」
「どちらもチューニングが必要だしコードが理解できないと演奏できないと思ったから。フルートやクラリネットも音合わせは必要だけどチューニングまでは必要がない。楽器を組み立ててすぐに演奏できるという感じ」
「先生は面倒なことが嫌いなようだから、マウスピースやリードを選ばないといけないクラリネットよりフルートの方が向いていると思うけどなあ」
「そうね、確かにマウスピースをヴァンドレンのどれにするか、リードは合成樹脂製のリードを使って見たり苦労しているけれど、私がクラリネットを選んだのはリード楽器はリードを変えれば違った音が出せると思ったからなの。でも今のところは自分が気に入った音を出すのに精一杯で他のいい音を出すことなんて夢のまた夢だわ。でもひとつ気に入った音が出せたらそれで充分かな」
山北は他にも奥山先生に聞きたいことがあったが、奥山先生の真直ぐな正確は正面から息を入れるクラリネットに向いていると思ったし、好きな演奏家がカール・ライスターとレオポルド・ウラッハだということは以前聞いたことがあったので尋ねなかった。外が暗くなって来て、奥山先生が、そろそろ家に帰りましょうかと言ったので三人は駅の待合室を出た。