プチ小説「こんにちは、N先生 112」

私の母親は大阪医大病院で手術をして現在入院中なのですが、お見舞いを終えて正門を出て阪急高槻線沿いに阪急高槻市駅の方に歩いているとN先生が私に声を掛けられました。
「君のお母さんが入院しているんだね。大変だね」
「あっ、N先生、お気遣いいただきありがとうございます」
「で、今はどういう状況なのかな」
「2022年の年末に大腸穿孔で大学病院で緊急手術となり翌年4月には自宅に帰ることが出来ましたが、ストマの管理と頻尿で毎日大変だったのです。今年の夏はさらに頻脈となり近くの病院で心臓病治療をしました。主治医の先生が親切な先生でこまやかな医療をしてくださり合った薬が見つかり正常な状態に戻りました。それで安心していたところ8月頃から腹部が膨らみ始め、原因は人工肛門設置が原因の臍ヘルニアであることがわかりました。かかりつけ病院の紹介状を持って大学病院を受診したところ、臍ヘルニアは良性だが放っておくと腸が締め付けられて腐ってくる可能性がある。放っておいても天寿を全うする可能性はあるが、お腹の圧迫感が酷くなるから手術を推奨すると言われました。それで本人の希望もあり手術をすることになったのですが、89才で、心臓病の治療後、人工肛門手術後の臍ヘルニアの手術が難しいことなどがあり手術が無事終わるか心配していたのですが、10月27日に施行した手術が6時間で無事に終わり11月4日に退院することになっています」
「そうか、それは🎊。しばらくは君も安心して毎日が送られるね」
「なかなかそういうわけにはいかないんです。母は以前から足が不自由で今回の手術後の入院でさらに足が弱っています。今すぐに家に帰って前のように自分でストマの管理、排泄、洗濯などができるように思えないので、退院してからもしばらくかかりつけ病院やケアマネさんと相談してのケアが必要になります。転倒して大腿骨骨折となると寝たきりになってしまうので、手足が以前と同じように動かせるようになり日常生活に困らないようになるまでは安心できません」
「まあ、今君が何とかやって行けているのはお母さんのお陰だから、せいぜい親孝行することだ。ところで君は一昨日『人間のしがらみ』(河合祥一郎訳)を読み終えたようだが、面白かったかい」
「その作品のことについて話す前に私なりの教養小説(英ビルディングスロマン 独ビルドゥングスロマーン)についての考えを言わせていただきたいのですが」
「それはかまわないが、手身近にお願いしたいな」
「では手身近に、私は教養小説というカテゴリーに入る小説が大好きで、このモームの『人間のしがらみ』(この新訳以外は『人間の絆』と訳されている)の他、ディケンズの『デイビッド・コパフィールド』『大いなる遺産』、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、ケラーの『緑のハインリッヒ』それからこれらは教養小説との明示はないのですが、私が教養小説と思っているヘッセの『ガラス玉演戯』とフィールディングの『トム・ジョウンズ』(ピカレスク小説と一般的に言われていますが主人公トムの成長を描いた小説だと私は思うのです)で共通して描かれるのは、以前『緑のハインリッヒ』の感想文を書いた時にも述べたのですが、恋愛、友情、社会に出るための教育、ライバルとの争い(切磋琢磨)、技術を身につけるための修行、親の愛情、親との別れ、友との別れなどの場面が思い浮かびます。そうしてそういう場面にはしばしば感動が伴い、読後感を充実させることが多いのです。恋愛だけに絞った小説は数多ありますが、人生の様々な感動的な場面を取り扱う教養小説はいわば小説家の腕の見せ所で最後まで筋が通った、終わりに向けて盛り上がりが見られる教養小説は、私は最もすぐれた小説だと思うのです」
「わかった。じゃあ、次は『人間のしがらみ』の感想を聞こうか」
「河合訳の『大いなる遺産』を読んだ時も感じたのですが、本当に読みやすく盛り上がる場面では常に感動が伴います。こう言ったことは今までになかったことで、率直に言って、私が親しんだ小説で小池滋氏の訳しかない『リトル・ドリット』、田辺洋子訳しかない『ニコラス・ニクルビー』の翻訳をしていただけたらと願うのです。『人間の絆』の中野好夫訳は今までに3、4回読んだことがあり、感動を伴うところは同じと言えますが、河合訳は明晰で読みやすいため、特にソープ・アセルニーとの交流、サリー・アセルニーとの恋愛のところがよく理解でき、最後のチャプターが重要な章であることがわかりました。また注の説明もわかりやすくこの小説の理解が深まった気がします」
「ということは、中野訳よりも優れた最高の翻訳ということになるのかな」
「私は翻訳はそれぞれの翻訳家が自分の知識を総動員して一生懸命訳されたものなので、誰のが一番というのは避けたいのですが、優れたものと言うのは間違いないと思います」
「それは同じことを言っていると思うけどなあ」