耳に馴染んだ懐かしい音4
森下さんのおばちゃんが音楽教室でクラリネットを習い始めて1年半が経過した。二郎はしばしばおばちゃんから、
自分の演奏を聞いてほしいと言われたが、発表会の時には必ず行きますからと言って先送りにして来た。それでも
前期試験が終わっておばちゃんから、新しく楽器を購入しようと思うので、試しに吹かしてもらおうと思っている。
楽器店まで一緒に行ってほしいと言われた時にはおばちゃんのクラリネットの音色をじっくりと聞いてみたいと思い、
ご一緒しますと言ってそれに応じた。
次の日曜日の正午に待ち合わせて、阪急梅田駅から5分ほどのその管楽器の専門店に向かった。3階に木管楽器の
コーナーがあった。おばさんは店員の女性に尋ねた。
「私、クラリネットを習い始めて、1年半になります。今の楽器に不満というわけではないけれど、もう少しいい
音でクラリネットが鳴ってくれたら、もっとしっかり練習しようという意欲が湧いて来ると思うのよ。それで
クランポンのR−13かRCのどちらかを購入しようと思っているんですけど、両方の楽器を吹き比べさせて
もらうなんて、あつかましいことをお願いしても許してもらえるかしら」
店員はニコニコしながら森下さんのおばちゃんの話を聞いていたが、しばらくお待ち下さいと言って席を外した。
「今日はね、このために楽譜もマウスピースもリガチャーもリードも持って来ているのよ。今日購入する楽器を
ずっと使うつもりなんだから、店員さんの話を聞いたり実際に吹いてみて納得した上で購入しないとあとで
後悔すると思うの」
しばらくすると、店員は、バレル、上管、下管、ベルを繋いだR−13とRCを持って現れた。
「私の感想では、R−13はブラスバンドをする人たちに人気があるクラリネットです。RCは内径が太いため
安定感があり音に深みがあります。R−13は少し固い音ですが、RCはそれに比べて柔らかい気がしますが、
これも内径と関係があると思います。マウスピースはどうされます」
「本体以外は持って来ているのでそれを使います。どこで吹けばいいですか」
「お客様がよろしければ、そこで吹いていただいてよろしいですよ」
森下さんのおばちゃんはしばらく準備をしていたが、準備ができるとドレミファソラシドを吹いた後にホルストの
木星の旋律を暗譜で吹き始めた。それから楽譜を取り出して、それに続いて、ロンドンデリーエア、グリーン
スリーブス、トロイメライ、歌の翼に、愛の挨拶、別れの曲などをなんとか吹きこなした。二郎は拍手を送りた
かったが、たくさんの客がいたので店の外に出るまで我慢した。おばちゃんはしばらく店員と話をしていたが、
二郎のところに戻って来ると言った。
「今日はおつき合いいただいて、ありがとうございました。やっぱり少し高くなるけど、RCの方にしたの。
楽器は来週中に入荷するようなので、うまくすれば次の日曜日からは新しい自分の楽器を手にすることが
できるのよ。本当に楽しみだわ」
「演奏すてきだったよ。こんどはじっくりおばちゃんの演奏をコンサート用のホールで聞きたいなあ」
「それなら、来年の2月の発表会に来てちょうだい。お待ちしておりますから」
そう言って、森下さんのおばちゃんは嬉しそうに微笑んだ。