プチ小説「長い長い夜 30」
十郎と山北が学校からの帰り道にクラシック音楽の話をしていると、洋子が後ろから声を掛けた。
「何のお話しをしているの」
山北が答えた。
「この前、カール・ミュンヒンガー指揮シュトゥットガルト室内管弦楽団のバッハの「音楽の捧げもの」をFM放送で聞いたけど、一糸乱れぬ音楽でとても気持ちよかったと話してたんだ」
「指揮者の力量で緊張感を持たせて綻びのない音楽をつくるのも聞きどころのひとつだとぼくは思う」
洋子は二人の話をにこにこしながら聞いていた。
「ミュンヒンガーの「音楽の捧げもの」なら家にあるから、今から聞かない」
山北は願ってもない話だったので飛びつきたい気持ちだったが、平静を装って答えた。
「それはとてもうれしいことだけど、お母さんの気を使わせてしまうしじきにお父さんも帰って来るだろうし」
「お父さんが帰って来るまでいるのは困るけど、夕食の前までならお友達とステレオでクラシック音楽を聞いてもらっていいとお父さんから言われたの。そうね2時間くらいならオーケーよ」
洋子の家に着くと二人はステレオ装置がある部屋に案内された。
「「音楽の捧げもの」の他に聞きたい曲あるのかしら」
洋子が自分の好きな曲を聞いてほしそうだったので、山北は言った。
「これからも洋子ちゃ呼んでもらうためには今日は選曲は洋子ちゃんに任せた方が良いと思うけど、山根君はどう思う」
「ぼく、好きな曲を掛けると言われたら、たくさんあるから2時間では収まらないと思う。だからぼくも今日は洋子ちゃんに決めてもらうのがいいと思う」
「じゃあ、きまりだね。洋子ちゃんは他に何が聞きたいの」
「私、ブラームスの交響曲が好きなの。特に第2番が。お父さんに誰のがいいと尋ねたら、ジョン・バルビローリ指揮ウィーン・フィルの演奏が一番だと言っていた」
「すると残りは30分ほどあるかな。それくらいの長さの曲で聞きたい曲があるかな」
山北がそう尋ねると洋子は満面の笑顔で答えた。
「もちろん、いくらでもあるわ。でも一番聞きたいのは、古典派の弦楽四重奏曲かな」
「となるとモーツァルトの第14番「春」とか第19番「不協和音」とかかな」
「そうかなぼくはベートーヴェンの第7番「ラズモフスキー第1番」か第10番「ハープ」だと思うな」
「ふふふ、ふたりともはずれよ。私が今から聞きたいのは、ハイドンの弦楽四重奏曲第78番「日の出」よ」
「そうか、ハイドンも室内楽の名曲を残しているからね。でも第77番「皇帝」の方が有名かな」
「私は「日の出」の明るい曲調が大好きなの。皇帝は荘厳だけどちょっと暗い気がするの」
「じゃあ、これで決まりだね」
三人の話し合いが終わったところで、洋子の母親がお菓子を持って部屋に入って来た。
「いつも洋子がお世話になっています」
「おばさん、そんなことないです。山根君もぼくもお父さんや洋子ちゃんにお世話になってばかりで。でもぼくの家でレコードコンサートをするわけにいかないし」
「そうですよ。おばさんもいつもお菓子を出してくれるし。お世話になってばかりで申し訳ないです」
洋子の母親は最初にこにこしていたが少し真面目な表情になって言った。
「私が小さい頃は男の子と女の子は別々に放課後を過ごしていたの。学校の教室では一緒だったけど。主人は洋子は男の子の友達とも親しくなって放課後を楽しく過ごしてほしいと考えたの。というのはなかなかクラシック音楽を聞くのが好きな女の子というのはいないから。おふたりともこれからも洋子と仲良くしてね」
二人は声を揃えて言った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
3つのレコードを聞き終える頃には洋子の父親が帰って来た。
「二人とも来てくれたんだね。私はこの前の夕飯の時に洋子に仕事が忙しくなるから、今までのように定期的にレコードコンサートを開催するのは難しい。山北君や山根君と三人でレコードを聞いてもらっていい。ただしテーマを決めて3時間くらいで終わるようにしてほしいと言ったんだ」
「お父さんがそう言ったから、平日の夕ご飯の前に来てもらったの。日曜日はお父さんもゆっくりしたいと思うから、三人でレコードを聞くのは平日か、土曜日かな」
「ぼくたちはレコードを聞かせてもらえるだけで有難いと思っているから、いつでも洋子ちゃんから声が掛かればお邪魔させてもらうつもりだよ」
「ぼくもだよ」
「じゃあ、二人とも今後とも遠慮せずに家に来てくれ」
「お待ちしているわ」
二人が帰る頃には暗くなっていたが、時々街頭で照らされる山北の顔が幸せそうなので十郎は自分も同じ顔をしていて山北もそう思っているのかなと思った。