プチ小説「長い長い夜 31」
十郎は今まで洋子の家でオペラのレコードを聞かせてもらったことがなかったので、学校からの帰り道に山北に尋ねてみた。
「洋子ちゃんのお父さんに今までいろいろクラシック音楽のレコードを聞かせてもらったけどまだ歌劇のレコードを聞かせてもらっていない。洋子ちゃんのお父さんは歌劇を聞かないのかな」
「うーん、確かにそうだね。ぼくはいろいろインストゥルメンタルの曲つまり管弦楽曲を楽しませてもらったから、そのことは考えたこともなかった。確かに僕も歌劇、宗教曲、合唱曲、歌曲なんかは聞かせてもらっていない」
うしろで二人の話を聞いていた洋子が話に加わった。
「そう言えばそうだわ。私もクリスタ・ルートヴィヒのシューベルトの歌曲集を聞いたくらいで、バッハのマタイ受難曲や序曲で有名なロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」全曲は聞いたことはないわ。最近、私もお父さんとゆっくり話す機会がないから時間を作ってもらうよう頼んでみるわ」
洋子のお父さんは愛娘の頼みを喜んで聞いてくれて、その週の土曜日の午後に歌劇のレコードのさわりを聞かせてもらいながら、歌劇についてお父さんの意見を聞くことになった。玄関のチャイムを鳴らすと珍しく洋子のお母さんが現れた。
「洋子がいつもお世話になっています。今日は朝からどの曲にしようかと二人で悩んでいて、今も選曲をしているわ。あまり悩むもんだから、今日はドイツ・オペラだけにしたらと言ったの。そしたらモーツァルトはドイツ語の台本でもイタリア語の台本でも曲をつけている。モーツァルトはどちらに入れたらいいんだと訊かれたわ」
「それでどうなったんですか」
「結局、主人が昔から好きなモーツァルトの「魔笛」、ワーグナーの「タンホイザー」、ロッシーニの「セビリアの理髪師」、プッチーニの「ラ・ボエーム」についてそれらの歌劇の中の聴きどころを聞いてもらいながらそれに関連したことを話そうということになったみたいよ」
「洋子ちゃんも話すのかな」
「洋子はオペラのことは余り知らないから、今日は聞き役よ。三人仲良く主人の話を聞いてね」
「わかりました」
十郎と山北がステレオ装置がある部屋の近くにまで来ると洋子が大きな声で父親に何か訴えているのが聞こえた。
「でもヴェルディの「椿姫」は「乾杯の歌」「ああ、そはかの人か」「花から花へ」などの有名なアリアがあるから絶対山北君や山根君も聞きたいと思うから、今日掛けてほしいの」
「だが、ヴェルディのオペラなら「トロヴァトーレ」の方がいいよ」
「なぜ、私の願いを聞いてもらえないのかしら」
山北は何となくお父さんの気持ちが理解できたので、仲介した。
「内容はともかく、ぼくは前奏曲だけはいつもいいなあと思っている。今日は他のオペラについてお父さんから話を聞いたりレコードを掛けてもらうから前奏曲だけ掛けてもらうというのはどうかな」
「そうね、内容を深く理解するにはもう少し大きくなってからの方がいいかもしれないわね」
洋子の父親がほっとしたような表情になったので、十郎と山北は笑顔を交わした」
「じゃあ、今日はモーツァルトの「魔笛」、ワーグナーの「タンホイザー」、ロッシーニの「セビリアの理髪師」、プッチーニの「ラ・ボエーム」についての話と聞きどころを聞いてもらうことにしよう。たくさん話したいことがあるから、今日は質問は控えてもらえると有難い。まずモーツァルトの「魔笛」からいこうかな。まず序曲より有名な夜の女王のアリア「復讐の炎は地獄のように我が胸に燃え」を聞いてもらおうかな」
十郎はこの曲を初めて聞いたが、おぞましいタイトルにもかかわらず、ソプラノ歌手が高音を出すところがユーモラスに感じて口元が緩んだ。それを洋子の父親が見ていて、曲が終わるとそのことを言った。
「今、この曲を聞いていて山根君は微笑んでいたけど、それは正しい。ザラストロと夜の女王のガチンコ対決を深刻に捕らえるというのは正しくない。おとぎ話を楽しむというふうに聞かなければ、パパゲーノやモノスタトスの見せ場も楽しめない。夜の女王のアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」はその極地でこのオペラの一番の聞きどころだと思う。では、次のワーグナーの「タンホイザー」に移ろう。まず序曲とヴェヌスベルクの音楽と「夕星の歌」を聞いてもらおうかな」
十郎は以前、ワーグナーの管弦楽曲集を掛けてもらった時にこの曲が入っていたのを思い出した。
「序曲は余りに有名だし一度聞いたら忘れない。タンホイザーの親友ウォルフラムが歌う「夕星の歌」はタンホイザーが無事にイタリアから戻るようにと歌ったアリアではなくてタンホイザーについてイタリアに向ったエリザベートが無事に故郷に帰って来るように願った歌だ。エリザベートを夕星に例えて讃えている。「タンホイザー」は杖に生命が宿るという奇跡が起こりそれが救いとなるが、この曲は寒々とした風景が続くオペラの中の唯一の温かい掘りごたつのようだ」
お父さんの話を聞いて三人は微笑んだ。
「うけたので、気を良くして次のロッシーニの「セビリアの理髪師」に行こうかな。この曲は序曲も素晴らしいが、アリアはもっと素晴らしい。フィガロの「おいらは街の何でも屋」、アルマヴィーヴァ伯爵の「空はほほえみ」、ロジーナの「今の歌声は」、医師バルトロの「私のような医師に向って」はいずれも一度聞いたら忘れられない名曲と言える。これほど充実したオペラをわずか24才で作曲したのだから、天才と言っていいだろう。レコード係の洋子は大変だがこの5曲を全部聞いてもらおう」
「わかったわ、お父さん」
医師バルトロのアリアのところで三人はふき出したが、すべての曲が終わると洋子のお父さんの話を静聴した。
「最後はプッチーニの「ラ・ボエーム」で日本語に訳すとボヘミアンで1830年当時にパリにいた芸術家の卵たちのことを指します。貧しいけれど希望に溢れ仲間たちと楽しく毎日を過ごしているが、その反面経済的に困窮していてしかも万一病気に侵されてしまうと悲しい別れがあるという生活がうまく描かれている。主役は詩人ロドルフォとお針子ミミだが、彼らの「冷たい手を」(ロドルフォ)、「私の名はミミ」(ミミ)が有名だが、とても暗い。第2幕でムゼッタが歌う「私が街を歩けば」は明るく、この全体的に暗い感じのオペラの唯一の救いとなっている。最後のロドルフォの絶唱が聞きどころと言えなくもないが、あまりに悲惨な場面なので今日の会では省略させてもらう。いつか全曲通して鑑賞する時に聞くことにしよう」
ムゼッタのワルツ「私が街を歩けば」が終わるとお父さんはにこやかに話した。
「実は、最近レコードコンサートをしなかったのはネタがなくなったからというのではなくて何を掛けたらいいのか迷うようになったからというのがその理由なんだ。こんな曲が聞きたいというだけでは選曲に困るが、オペラの名曲が聞きたいとかテーマを決めてもらうと纏めやすい。そういうのがあったら、どんどんどしどし言ってほしい」
洋子のお父さんが明るくそう言ったところで会はお開きとなった。