プチ小説「こんにちは、N先生 114」
私は現在母親が摂津市にある特養施設に入所しているため、毎土曜日の午後にお見舞いに行くことにしています。阪急電車を利用して行けなくもないのですが、正雀駅から27分も歩き電車賃も200円かかるので60分余り掛けて自転車で行っています。府道16号線を南下して摂津市内に入ると道幅が少し広くなるのですが、トイレ休憩をしようとコンビニを探していると後ろから、まだ遠いのかなと声が掛りました。それはN先生でした。N先生は歩道の道幅が広くなると私と並んで走りましたが、先生が乗っている自転車は50年ほど前に流行ったドロップハンドルで派手な方向指示器がついたサイクリング車でした。先生は私の少し前に行くと、中古で安いのがあったので買ったんだ。これもまだ使えるんだよと言って、方向指示器を光らせました。
「あっ、先生、今からどちらに行かれるんですか」
「新しい自転車を買ったし、今日は天気が良くて小春日和だから府道16号線を南下しようと思ったんだ」
私はなぜ小春日和になるとN先生が府道16号線を自転車で走りたくなるのかよく分りませんでしたが、うきうきした気分で自転車に乗ることができて良かったですねと言いました。
「ところで君はモームの『お菓子とビール』を読み終えたようだがどうだった」
「学生時代に購入した記憶があったので、あまり読まなくなった本を置いているところを探してみたのですが、見つかりませんでした。それで仕方なく古本を購入したのですが、正直言って、ロウジーという女性の愛らしさだけが印象に残る作品でした。勿論『人間の絆』や『剃刀の刃』のような心を動かされる、つまり感動するシーンはまったくありませんでした。私はモームの小説を一通り読んでからモームの作品には感動的な小説とつまらない小説があると考えるようになったのです」
「まあ、そういう決めつけは良くないと思うが、最後まで君の話を聞こう」
「感動的な小説は他に『月と六ペンス』がありますが、『人間の絆』は自伝的小説で教養小説で「ペルシャ絨毯」の謎、ミルドレッドとの痴人の愛があったりして人間の成長を描いた小説として楽しめる小説です。この小説は中野好夫訳の他に『人間のしがらみ』というタイトルの河合祥一郎訳があってどちらもわかりやすい訳です。『剃刀の刃』は2つの訳があって講談社文庫(ちくま文庫)の中野好夫訳と新潮文庫の齋藤三夫訳があります。私は大学生の頃から中野好夫氏が訳した『デイヴィッド・コパフィールド』『二都物語』(以上ディケンズ)、『人間の絆』(モーム)、『自負と偏見』(オースティン)を愛読していたので、『剃刀の刃』も中野訳を読んでいたのですか、齋藤訳も読んでみようと思い、読んでみたところ中野訳は輪廻について主人公ラリーが説明する場面だけが印象に残ったのですが、齋藤訳はラリーを取り巻く女性たちが魅力的?で印象に残ったのでした」
「その女性たちがラリーを誘惑したわけだ。となると上田勤訳でよくわからなかったので、例えば岩波文庫の行方昭夫訳を読んでからぼくに感想を聞かせてくれるのかな」
「翻訳が優れていたら平凡に思われていた作品が名作となるのはよくあることですが、新潮文庫の『お菓子とビール』の最後は、
「わたしは時々そんな気がするのですが、あの人はあなたが今までに好きだったたった一人の人じゃなかったのですか」
「ある意味ではそうだったわね」
「一体どういうところが好きだったのでしょう?」
ロウジーの視線が動いて、壁にかけた一枚の写真を見た。(中略)写真の彼は長いフロックコートを着て、きちんとボタンをかけ、高いシルク・ハットを小意気に横っちょにかぶっていた。ボタン孔には大輪のバラを挿し、小脇に銀のにぎりのステッキをかかえ、右手に持った大きな葉巻から煙が渦をまいて立っていた。彼は端を蝋で固めた濃い口髭をはやし、眼に不敵な表情を浮かべ、その態度には傲然と気負ったところがあったネクタイにはダイアモンドをちりばめた馬蹄形のピンがさしてあった。全体の感じはまるでダービーの競馬に出かけるために、精一杯めかしこんだ酒屋の亭主といった感じだった。
「だって、」とロウジーは言った。「あの人はいつもこんな風な立派な紳士だったのですもの」
となっていて読者が路頭に迷うような最後の場面となっています。
私は最近になって、『人間のしがらみ』を読んで、ペルシャ絨毯の謎が解ける場面と同じくらい大切な場面が最後の章にあることに気付いたくらいなので、行方訳の『お菓子とビール』を読めば『お菓子とビール』も名作だったことに気付くかもしれませんが、上田訳で最後のところを読むとまったくそう思いません。行方訳は現役で書店の棚に並べられているので大きな本屋で立ち読みをして古本を購入するかそうしないのか決めたいと思います。主人公とオルロイ・キアが語る文壇の内輪話も退屈ですし(モームや近くにいてそういったことに興味があった人には面白かったかもしれません)、教養小説のカテゴリーに入る作品でもありません。唐突にトマス・ハーディが出て来ますが、私は『テス』を途中で読むのを止めたように興味がある作家ではありませんから」
「モームには他に太平洋、雨、赤毛などの熱帯もの?アシェンデンなどのスパイものもあるが、君は多分興味が持てないんだろ」
「そうですね、熱帯ものはいくつか読んだのですが、面白くなかったです。スパイものは興味を持ってそればかり読むようになるのが怖いので控えています」
「いつになるかわからないが、モームの面白い小説を他に発見したら教えてくれるかな」
「もちろん、私も期待しています」