プチ小説「こんにちは、N先生 115」
私は毎年11月になると自著『こんにちは、ディケンズ先生』を出版する時にお世話になった方にその本に登場するお煎餅屋さんの煎餅を送るのですが、今年も生姜、赤味噌、そら豆など4種類の煎餅を2つずつ発送依頼しました。以前は揚げた煎餅(ボーロ)や白味噌味の煎餅もあったので、味は変わらないとは言え陳列棚の商品が少なくなったことに寂しさを感じます。発送を依頼した後、何度か購入したことがある同じ上七軒にあるお豆腐屋さんとようけ屋山本豆腐店へと向いました。今出川通りを横断する手前で信号待ちをしていると、湯葉と絹ごしと胡麻豆腐と厚揚げを買うのかなと後ろで声がしました。後ろを振り返るとN先生がいました。
「そうですね、多分、先生が言われたのと同じ商品を買って帰ると思います。他にも木綿豆腐、シソ豆腐、柚子豆腐も美味しいですし、徳島産の醤油ダレも美味しいです。今老健施設に入所中の母親も手術前は食欲がなかったのですが、ここの豆腐だけは喜んで食べていました。そのおかげで手術がうまく行ったのだと思います」
「そうか、そんなに口当たりが良くて体力が付くのなら、これからもいろいろな料理を作ってお母さんに食べさせてあげるといい」
「醤油ダレでシンプルに食べるのもいいですが、おでんや肉じゃがのような煮物や麻婆豆腐も作ってみたいと思っています。素材やお出汁がよければ私が自分で作った料理でも美味しいですし外食より食事を安く済ませることができるのがなによりです」
「豆腐は食材として安いからいいね。ところで君はモームの『女ごころ』(原題 Up at the villa)を読み終えたようだが、面白かったかい」
「間違いなく、今までに読んだ小説ベスト10に入る面白い小説でした。モームの小説では『人間に絆』の次でしょうか」
「160頁ほどの中編小説だけど、どこが面白かったのかな。訳が良かったのかな」
「龍口直太郎訳(新潮文庫)を読みました。『女ごころ』というタイトルに変えたのはこの小説の中にヴェルディの歌劇「リゴレット」の「女ごころの歌」が出て来ることとヒロインのメアリイが三人の男性の言動を前にして「女ごころ」が揺れ動くことから訳者が内容を理解してもらいやすいと考えて『女ごころ』という邦題にしたようです」
「メアリイは自動車事故で夫を失ったばかりの30才の女性だが、幼い頃から親しくしている相思相愛の男性がいた。ただその男性とは24才の年齢差があり一旦は同年齢の男性と結婚したが、夫がなくなったため長い付き合いの男性との結婚も選択肢となった。なにより出世コースを歩む男性で将来はインドの総督の候補とも言われていてメアリイは尊敬していた」
「よくご存じですね」
「メアリイはその男性エドガーへの回答を保留したが、イエスかノーかの回答を迫られた。メアリイはフローレンス滞在中に親しくなったロウリイがいた。ロウリイはメアリイへの熱い思いを口にしていてメアリイも悪い気はしなかったが、風采が上がらない男性で悪いうわさもあった。しかし家柄は悪くなく収入も安定していた。メアリイが出席したパーティにロウリイが来ていて、メアリイはパーティの後にドライヴをしようとロウリイに誘われる。道すがらメアリイはロウリイにプロポーズをされて心が動いてしまう」
「先生も読まれたのですね」
「そうだよ。そうしてメアリイが悪い印象を持たずにロウリイと別れて自分の車で家へと向っているとパーティでヴァイオリンを弾いていた若い男性を見掛ける。男性は高額のチップのお礼をいいたいと言う。話を聞いていると、その男性はカール・リヒターという名でオーストリアから難を逃れてイタリアに来たと言う。メアリイは青年の話を聞くうち、女ごころが揺らいで心から同情し食事をふるまい愛情を示したが、そこまでだった。一方メアリイの美貌の虜となったカールは行くところまで行かないと・・・」
「先生、ちょっと過激だと思います。カールはそれを強く願ったが、メアリイはエドガーという結婚するかもしれない人がいたので行き当たりばったりでは動かずに拒んだのでした」
「それで強いショックを受けたカールはメアリイが持っていたピストルで自ら命を絶ってしまう。ふたりの召使に警察を呼んでと言えば済んだことなのに、いろいろ怪しまれる点があったので召使には真実を話さず、ロウリイに助けを求める」
「そのあと死体をロウリイと二人で運ぶことになるんですが無事?知られないで隠せるのか、またそういった行動をしたメアリイのことをエドガーがどう思うのか、メアリイは結局エドガー、ロウリイどちらの男性に将来を託すのかなど最後まで楽しめました」
「まあモームが後に書いた『昔も今も』のような歴史小説でもないし、名作と言われる『人間の絆』『月と六ペンス』のような風格もなく、ストーリー展開と会話を楽しむ軽い小説と言える。それでもベスト10に入ると言うのはどこが良かったのかな」
「モームは劇作家として活躍していた時期があり今でも評価されている劇がいくつかあります。その手法がこの作品にはいくつかみられます。特に印象に残るのは、メアリイの気配りが仇となりカールが有頂天から絶望に変わり命を絶ってしまうところです。またメアリイがエドガーに自分がした過ちを明かしてそれでも私を愛しますかと迫るところなぞは、フィクションとは言え、他人事とは思えない切迫感、緊張感があります。それからメアリイがロウリイとカールを遺棄するところは犯罪を犯してしまうところですが、なぜかユーモラスな気がしてこういうこともフィクションだから許されるのかなと思ってしまいます」
「まあ、それだけ楽しめたんだから、君には良かったんだろう。ついでにベスト10も言っといたらどうかな」
「じゃあ、モームの「世界の10大小説」を真似して、「私の10大小説」を言いますと『大いなる遺産』『デイヴィッド・コパフィールド』『リトル・ドリット』『荒涼館』(以上ディケンズ)『人間の絆』(モーム)『モンテ・クリスト伯』(アレクサンドル・デュマ)『オデュッセイア』(ホメロス)『ウェルギリウスの死』(ブロッホ)『緑のハインリヒ』(ケラー)そしてこの『女ごころ』でしょうか」
「それほどの評価をするんだったら、まだ読んでいないモームの小説を読むんだろ」
「ええ、もう『昔も今も』を読んでいるところです」