プチ小説「月に寄せて」

上野は、紅茶を口に含むと同時に近くにあるラジオのスイッチを入れた。
<今日は、NHK−FMのオペラアワーでドヴォルザークの「ルサルカ」を放送するというので前から楽しみにしていたんだ。
 劇中の「月に寄せる歌」は何度か聞いていて、いつもすばらしい曲だと思っている。水の精ルサルカが人間の王子に
 恋をして、夜空の月に願いごとをする歌だけれど、愛しい王子の住処を尋ねたり、自分の思いを王子に伝えてほしい
 と願っている。といってもいつまでも月が輝き続けることはできないということをルサルカは知っていて、最後は
 月よ光を消さないで雲に隠れないでと祈っている。太陽は翌日必ず登って来て世界を明るくするが、月は満ちたり欠けたり
 時には姿を消したりと不確実で当てにならない人間の心を象徴しているようだ。でも、そんな月でもすがりたいというのが、
 ルサルカの素直な気持ちなのだろう>

<やはり、2時間半以上も何を歌っているかわからないないのに聞き続けるのは難しいなぁ。合間に入れてくれる解説は
 曲の理解の助けにはなるけれど、映画の字幕スーパーのように場面ごとの会話がすべてわかるのでないから...。結局、
 ぼくにできることはところどころに出て来る有名なアリアだけを鑑賞するか、管弦楽作品として聞いても楽しめるような
 場面を聞くかだな。「魔笛」「タンホイザー」「ボエーム」「椿姫」「トロヴァトーレ」「セビリャの理髪師」や
 オペレッタの「こうもり」「メリー・ウィドウ」なんかは楽しめるのだけれど...。それ以上のめり込めないのは歯痒いけれど、
 まあしばらくは管弦楽曲をじっくり楽しんで残った時間でオペラを聞くことにしよう。そんなことを考えていたら
 だんだん眠くなって来たぞ...>

ふと気が付くと上野は荒れ野にひとり佇んでいるのに気が付いた。ただ明るく広いところに出ようとして湖の畔に
やって来た。湖は満ちた月を反映していた。上野は後方に人の気配がしたので振り向くと金髪の美しい少女がそこにいた。
上野は水の精「ルサルカ」と思ったが、自分は王子でもないし言葉が通じるかわからないので、黙って会釈するだけだった。
ただその少女の美しさは上野の心を強くとらえていたので、そこから動くことができなかった。少女も上野に興味があるのか
じっと見つめていた。どれほどの時間が経過しただろう、もうとうに月が沈んで朝がやって来てもよさそうなのに、上野は
月と蒼みを帯びた夜の静寂の中で少女と対面して立ち尽くすだけだった。
<ぼくはすてきな女性が現れても、自分の度量を過ぎていると感じたりややこしいことになりそうだと思ったら、
 回れ右をして逃げ出した。でも今日は違うぞ...>
「ねぇ君、ぼくと一緒にきれいな月を見ていたいと思わない」
「......」
「月夜の静寂の中でこうして二人だけでいるとロマンティックな...」
「そうね。わたしもご一緒したいわ」

もちろん夢の出来事であり上野はそれからしばらくして夢から覚めたが、その甘い切ない思いは「月に寄せる歌」を
聞くたびにその後しばらくは思い出されるのだった。