プチ小説「長い長い夜 36」
十郎は山北から言われたアナログレコードの将来について考えながら、家路についていた。駅舎の前を通ると後ろから奥山先生の声がした。
「あら、山根君、まだ帰っていなかったの」
「あっ、先生、ぼく、山北君と教室で話をしていて遅くなったんです。先生は今からクラリネットのレッスンですか」
「そう、今からレッスンなんだけど・・・丁度いいわ。山根君に尋ねたいことがあるんだけど、時間あるかしら」
「ええ、大丈夫ですよ」
「じゃあ、駅舎のベンチでゆっくり話しましょう」
駅舎は午後5時頃から混むが、まだ混むまでは時間があり待ち合いの人影は疎らだった。
「実はね今度、私がレッスンを受けている音楽教室の発表会があるの。それで山根君がご家族と来てくれないかなと思うんだけど。もちろんこれは時間があって、山根君が是非参加したいということでなければ、教師の立場から強制したということになるから山根君次第だけど」
「ぼく、一人で京都まで行ったことがありません。それにお父さんが休みかどうか」
「そうよね、お父さんも休日はゆっくりしたいだろうし」
先生が淋しそうな顔をしたので、十郎は言った。
「ぼ、ぼく、今は無理ですが、きっと中学生になったら、行くと思います」
「そうね、多分、それまでは続いているだろうし。待っているわ」
「先生は、発表会はひとりで演奏されるんですか」
「私、レッスンを始めようと思って音楽教室の窓口で話を聞いた時は個人レッスンにしようと考えていたの。昔からクラリネットをやって来た人だけでなく、初めて習う人も他の楽器をしているだろうし、置いてきぼりにされると考えたの。それで個人レッスンにしようと考えたんだけど、窓口の人は個人レッスンだと数ヵ月習って上手くならないから止めてしまうことがある。グループレッスンだと他の人から刺激を受けたりして頑張るから長続きすると言われたの」
「実際のところはどうだったんですか」
「窓口の人の言う通りで、大いに刺激を受けて続いているわ。発表会ではグループでレッスンを受けている人全員で演奏するんだけど、みんなで一つの課題曲をたっぷり練習するのも楽しいわ」
「でもクラリネットは運指が難しいだけでなく、B♭管だからややこしいと聞きます」
「そうね、確かにドの音を吹いても出るのはシ・フラットの音で、例えば伴奏付きのクラリネット以外の楽器や声楽の楽譜を買っても、クラリネット用楽譜を作らないと使えない。シャープを2つ付けて2度上げないと伴奏と合わなくなってしまうの」
「じゃあ、C管なら大丈夫ですね」
「B♭管といろいろ違っていて、やりにくいみたい。だから先生は将来上手になって、ピアノ伴奏付きで声楽や管楽の独奏の楽譜を演奏するようになったら、自分でクラリネットが演奏するところを伴奏に合うようにした楽譜を作成するつもりなの」
「そしたら、ぼくの好きな「君はわが心」や「ソルヴェイグの歌」がピアノ伴奏付きで歌を歌うようにクラリネットで演奏できるのですね。それは面白いなあ」
奥山先生はニコニコしながら応えた。
「そうよ、そこまでできたら、とても楽しいと思うから先生は頑張るつもりなの。きっとそこまで行くには10年かかるだろうから、山根君もクラリネットを習えるんじゃないかしら」
「そうですね、そうなれたらすてきだなあ」
「先生、山根君とレッスンを一緒に受けるようになることを楽しみにしているわ」
山根は、指切りをしましょと言われると困ると思ったので、そろそろ帰りますと言って奥山先生と別れた。