プチ小説「月に寄せて2」
その日も上野は深夜まで仕事をしていたので、会社の社屋を出て空を見上げると、丁度頭の真上に
満月があった。上野がしばらく線路伝いに歩いていると、月は上野のことが気に入ったように
追いかけて来て明るい光を投げかけた。
「最近、ドヴォルザークの「ルサルカ」に凝ってしまって、ついに全曲盤のレコードを購入してしまった。
「月に寄せる歌」は確かにすばらしいけれど、他にもこの曲のように強く心をとらえる箇所があるん
だろうか。この前FM放送で聞いたけれど...。どうもひとつのことが気になり出すとのめり込んで行く
性分らしい。それは衝動に近い。じわじわ来るのがいいんだろうが、僕の場合はしゅっしゅっという
感じだな。蒸気のようなものが身体を突き抜けて思わず行動してしまう。ディケンズの「リトル・ドリット」
に出て来る、パンクス氏のようだ。彼は蒸気機関車のようにエネルギッシュに行動するが、ぼくの場合は
衝動が発生するが、実を結ばずに中途半端になることが多い...」
上野は美しく輝く月をじっくり眺めるために立ち止まった。すぐに夜行列車が通り過ぎた。
「それにしても最近は新幹線の普及でこの時間に夜行列車が通過することはほとんどない。時代の移り変わりを
感じるが...。月は変わらずこうして輝いてくれる。最近は「ルサルカ」に興味を持ったからか、
月を今までと違う感情を持って、祈りを込めてとまでは行かないが、見ている。ルサルカと王子の物語は
悲劇的な結末を迎えるようだが、その過程ではお互いが心をときめかせることができたので、短い期間でも
その時は幸福だったんではないのだろうか。幸福が永遠に続くなんて限られた人だけのことだから...。
少しの間であってもそのような感情が持てれば、幸福とはこんなものかと実感できるだろうに」
ふぅっとため息をついて、上野は再び歩き始めた。
「こうして仕事をしているうちに時は過ぎて行く。何か幸せな出会いがないものだろうか。自分の職場は
男ばかりの工場であるし。休日に町中を歩いていて、美しい女性に出会うことはあるけれど...。
久しぶりに今度の週末はゆっくりできそうだから、京都にでも出掛けてみようか。
いやいや、「ルサルカ」を鑑賞するのだった」
もう少しで駅に着くところで、ひとりの女性が近づいて来た。
「あのう、これをお忘れでしたので...」
「ああ、さっき立ち止まった時に置き忘れたんだ。大切な書類を紛失するところだった。ありがとう」
「工場を出られたところからずっと後ろにいたんですけど、何か考えごとをされているようでした。何か
つらいことでもおありでは」
「つらいことは何もないけれど、何もないというのがつらいことかな」
「ふふふ、面白い方ね。私、この近くで働いているのでまたお会いするかもしれない。じゃあ」
そう言って、彼女が右手を差し出したので、上野は握手してさらにもう一つの手をそっと添えた。