プチ小説「長い長い夜 38」

十郎は山北を誘って京都市内の小学校で開催されるコンサートを見に行くことにした。十郎が山北に、家から京都市内までは国鉄で(この物語は1981年を想定しています)1時間ほどかかりコンサートが終わるのが8時頃になるが午後10時までに帰宅できるだろうかと尋ねると、山北が大丈夫と言ったからだった。そのことを十郎が両親に話すとそれならなら山北君と二人で行ってもよいと父親に了解してもらったのだった。最寄りの国鉄の駅で各駅停車に乗り座席に腰掛けると、山北は言った。
「今日はオーケストラの生演奏が聞けるんで楽しみだね。モーツァルトの交響曲第40番全曲の他は何を演奏するんだったかな」
「グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲だよ。山北君はモーツァルトばかりを聞きたかったのかな」
「そう、「フィガロの結婚」序曲か「魔笛」序曲を一緒に聞きたかったんだけど、「ルスランとリュドミラ」序曲も好きな曲だから。ところで山根君が教えてくれたから今日楽しめるんだけど、よくわかったね」
「先週、お父さんと一緒に京都市内を歩いていたら、市の告知板に市民コンサートという貼り紙がしてあって、最初に目についたのが、世界的な指揮者Wさんが京都市交響楽団を指揮すると言うこと。しかもモーツァルトの交響曲第40番を演奏するってことだから、何とか行きたいと思ったんだ。でも平日の午後7時からこのコンサートが始まるとなるとお父さんと一緒に行くわけには行かない。どうしようかと思っていたら、山北君が声を掛けてくれたんだ」
「山根君が何か悩んでいるように思えたから尋ねてみたんだけど、お役に立てて良かったよ」
十郎と山北は京都駅で市バスに乗り換えて、千本三条のバス停で降りると朱雀第一小学校があった。入ってすぐに円形の校舎があったので、山北が校舎の中はどうなっているのかなと中を覗き込んだ。十郎はそれを制して言った。
「今、6時30分だから開始までまだ時間があるけど、なるべく前の方で見たいから早く体育館に入ろう。コンサートが終わったら、指揮者の人にサインをもらって急いで帰ろう。多分、電車は30分に1本くらいしかないから、急いで帰らないと家に帰るのが10時を回ってしまうよ」
十郎が受付でもらったプログラムを見ていると後ろで声がした。
「ああら、お二人お揃いなのね」
奥山先生は同じくらいの年齢の女性と一緒だった。
「あっ、奥山先生、先生もこのコンサートに興味を持たれたのですね」
「そう、それで同僚の若梅さんに声を掛けたんだけど・・・二人は京響の小学校でのコンサートをよく聞きに来るの」
先生が十郎の方を見て尋ねたので、十郎が答えた。
「いいえ、たまたまお父さんと京都に来た時に 告知板にコンサートの案内が貼られてあったんです。お父さんが遅くなるけど山北君と一緒なら行っていいと言ってくれたんです」
「でも明日授業があるし、あんまり遅くなるとダメよ。寄り道しないで帰ってね」
「わかりました。奥山先生もまっすぐ帰ってください」
奥山先生たちがほほえみながらが自分の席に戻ったので、十郎はもう一度プログラムを見た。
「休憩時間を合わせて全部で1時間くらいかなあ。コンサートが終わったら、体育館の横で指揮者の人が出て来るのを待つんだ」
「サインしてもらうって、色紙を買ったの」
「うん、文房具屋さんで買った。ボールペンでサインしてもらうわけに行かないから、サインペンも一緒に買ったんだ」
しばらくしてコンサートがはじまり、二人にとっては初めてオーケストラの生演奏を聞いたが、天井の高いオープンなホールだったので、名曲をよい音でじっくり聞かせるというより初心者に明快で楽しい音楽を提供するという感じの演奏だった。
「山北君、どうだった」
「楽しかった。でもよい音に耳を澄ませて感動的な演奏を聞く機会があればまた山根君と来たいな」
「世界的に有名な指揮者が指揮するところを間近に見られただけで、ぼくは来て良かったと思っている。指揮者の人が外に出たから、ぼくたちも外に出よう」
色紙を用意している人は山北だけのようで、山北はすぐにサインをもらった。そうして山北は指揮者に何か言って自分のことを覚えてもらおうという衝動が起きて、思わず口走った。
「ボストン交響楽団頑張ってください」
山北がそう言うと指揮者は少し当惑したような顔で答えた。
「ボストンへはこの間行ったから、今度はいつになるかな」
十郎は小学生の答えにくい質問に気軽に答えてくれる指揮者の様子を見て親近感を持った。
「ぼく、先生のような指揮者になれなくてもずっとクラシック音楽を聞き続けたいと思っています」
すると指揮者は今まで強張らせていた表情がなくなり明るい表情に変わった。
「そうだよ。クラシック音楽をずっと聞き続けることはいいことだ。一生変わらない友人のようなものさ」
そうして指揮者が右手を差し出したので、十郎はその手を握った。
帰りのバスに乗ると山北が言った。
「色紙を書いてもらって、握手もしてもらおうというのはあつかましいと思ったから頼まなかったけど、握手の方がよかったかな」
「でも色紙はいつまでも手元に残るからね」
十郎はそう言いながら両手の掌を合わせて、指揮者の手のぬくもりをいつまでも記憶に残しておこうと思った。