プチ小説「月に寄せて3」

上野は落とし物を持って来てくれた女性に会おうと週に一度は午前0時近くまで仕事をしたり、
彼女と話した所あたりが見渡せる喫茶店に何時間もいて通りをぼんやりと眺めていたが、彼女に
出会うことはなかった。それから半年が過ぎた頃に、上野に転勤の話が持ち上がった。明日が
転勤という日、上野が夜遅くまで仕事をして会社の社屋を出ると恋いこがれていた女性がそこにいた。
「やっと、お会いできたわ。これまで何度もこの工場の前を通る時に、あなたになんとかお会いできない
 かと...」
「それなら、ぼくも同じだよ。でも、ふたりの熱意が伝わったのかもしれない。なんとか間に合った
 という感じだ。実はぼく、明日には遠くに転勤してしまうんだ」
「でも、2、3年すればこちらに...」
「それはわからない。君という美しい女性が現れたんだから、そうしたいけど...」
「もしよろしければ、駅まで一緒に歩きませんか」
上野が勤める会社(工場)から駅までは線路沿いを歩いて5分ほどであった。
「あれから私、遅くまで仕事をした時には、あなたにお会いできるんじゃないかと期待を胸に
 この道を歩いたんだけれど、あなたとお会いできなかった」
「ぼくなんか、週に1回はあの時刻にここを歩いてたんだよ。でも、間に合ってよかった」
「そうね。でも、明日は私、仕事だし、あなたもきっと仕事で(転勤で)忙しいでしょ」
「でも、それよりもぼくは君のことをもっと知りたいから、できたら...」
丁度その時夜行列車が通り過ぎた。
「でも、急ぐことはないわね。私たちまだ若いのだから、仮にあなたが戻るまで5年かかったとしても 、
 大丈夫よね」
「そ、それはどうだろう...」
「きっと大丈夫よ。ねえ、これから何年先になるかわからないけれど、その日が来るのを待ちましょうよ。
 そうしてあなたが戻って来たら、私に声を掛ける。私はたとえ10年先でも同じところで仕事をしている
 と思うし、あなたが戻って来ればこうしてすぐに会えるだろうし」
「うーむ、そうかもしれないね。じゃあ、ぼくが戻るのを待つと約束してくれるのなら、握手をしよう。
 ところで、ぼくは君のことをもっと知りたいからまず手紙を...」
今度は貨物列車が通り過ぎた。貨物列車は夜行列車の3倍位の長さだった。
「ふふふ、この前も握手して別れたわね。じゃあ、今度お会いする時を楽しみにしているわ」
上野は、結局彼女の名前も聞けずに別れた。空を見上げると白銀に輝く月があった。それは気品のある
ものだったが、遠い存在でどこか寂しげで悲しみを湛えているように見えた。