プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生 」

この春、小川は大学に入学した。最も楽しみにしていたのが、文庫本では読めない大作を図書館で
手軽に読めることであった。初日の授業が終わるとすぐ、小川は3階にあるイギリス文学のコーナー
へと直行した。チャールズ・ディケンズの「ピクウィック・クラブ」(三笠書房)を手に取ると
閲覧用のテーブルにつき、ぺらぺらとページを捲っていたが、その心地良さそうな固めの黒い枕の
ようなたたずまいから来る誘惑に負けてしまい、眠くもないのに思わず頭を乗せた。

霧の中に一人の人物が立っていてぼんやりしていたものがはっきりしてくると、それは最近近くの
本屋で立ち読みした、「バーナビー・ラッジ」(集英社)の1ページ目に出ていた人に似ていた。
その口の周りに髭がある紳士は話した。
「最初に私の小説を選んでくれて感謝するよ。最近は日本の小説に押されて外国文学を読む人が
 めっきり少なくなった。きみはこれからも私の小説を大切に読んでくれるかな」
「ぼくは文豪と話をしていることに驚いています。もちろん今からディケンズ先生の小説をできる
 だけ読んで行きたいと考えていますが、ぼくなんかよりもっと熱心に先生の小説を読んでくれる
 人がいるのではないですか」
「私は、読む人の気持ちを大切にしたいんだ。今日の君は、大学に入って一日目の授業を終えて、
 疲労感もあるだろうにいろんな誘惑を断ってまっすぐに図書館に来てくれた。しかもイギリス文学の
 棚で最初に私の作品を手にしてくれた」
「そうかあれから...」
「いらない詮索は少しの間しないでくれ。少し話していいかな」
「もちろん。どうぞお願いします」
「そうして心から私の小説を愛読してくれる人には、謝意を表したいんだ。こうして君の前に突然
 現れたのは、何も自分の小説をどんどん、どしどし読んでくれと言うために出て来たわけではない
 のだよ」
「ひとつお訊きしていいですか」
「なんだね」
「そのー、先生はイギリス人なのになぜそのように日本語ができるのですが...」
「うーむ、そう来たか。それはね、今、起こっていることが、君の脳内で起きているからなんだ。
 私は人によって、人のニーズに合わせて、形を変えるのさ。だから君がわからないような言葉は全然
 使わなかっただろ。残念だが、今日はこれまでだ。ひとつだけ言っておこう、今日と 同じように
 ピックウィックの本を枕にしたからといって、再び現れることはないから。ではまた」

小川は目覚めて少しの間当惑していたが、文豪から褒められたことはうれしく、その余韻を味わっていた。

 

註)舞台の1980年当時は「ピクウィック・クラブ」の文庫本(筑摩書房)はまだ発売されていません。