プチ小説「こんにちは、N先生 128」

私は2009年に50才になった時からクラリネットのレッスンを受けていますが、一昨年あたりから猛暑が続いているので昨年からは8月はレッスンを受けないことにしました。以前は大学図書館に行ってからレッスン教室に行っていたので、お昼頃に出掛けることは気にならなかったのです。でも最近は最寄りの駅(25分徒歩でかかります)までお昼前の炎天下の中歩くのはつらいことが身に染みて、避けたくなったのです。それでも8月に一度くらいはレッスン教室に行っておいた方がいいと思い、今日はレッスン室を借りて3時間ほど練習をすることにして予約をしました。家を出て8分程歩くと六叉路がありますが、そこを渡っていると後ろから声がしました。
「君は昨日ヘロドトスの『歴史』を読み終えたようだが、どうだった。私の師匠の松平千秋先生の翻訳を読んだんだろ」
「ああ、N先生、すみません、私は、ホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』と同様に松平訳は読まなかったのです。ホメロスは呉茂一訳、ヘロドトス『歴史』は青木巌訳を読みました」
「なぜ松平訳を読まなかったのかな。岩波文庫の現役だし、読みやすいと思うけど」
「ホメロスもヘロドトスも松平訳を少し読んだのですが、入り込めませんでした。読んでいて楽しめなかったのです。それでホメロスは集英社から出ていた『オデュッセイア』を3年前に読むまでは興味がわかなかったのです。面白かったので、昔、岩波文庫から出た呉訳の『イーリアス』も読みました。そんなことがあったので松平訳のヘロドトス『歴史』を少し読んで興味がわかなかったので、他の訳を探しました。昭和28年に創元文庫で出版されてその後新潮社から出版された青木巌訳が読みやすい(大学図書館で新潮社の本が読めました)と思い、創元文庫がハンディで安かったので購入しました」
「昭和28年出版だと活字が読みにくいだろう・・・そうか、読みやすいのならそちらを読んだ方がいい。最後まで読めるかどうかが一番大事だからね。で、歴史の父の本は面白かったかい」
「私は以前トゥキュディデス『戦記』を読んだのですが、一般的に言われるように実証的な『戦記』と比べるとヘロドトスの『歴史』は歴史以外にもいろんな枝葉が楽しめます。サービス精神旺盛です。エジプトの紹介のところでわにやミイラのことを詳しく説明したり、スキティア(スキタイ)の紹介のところでは生贄や捕虜に対して残虐なことをしたことの説明など興味を持って読みましたが、第4巻105のところで「彼らは妖術師であるように思われる。なぜかならば、スキティア人およびスキティア在住のギリシア人の話によると、年に一度各ネゥリス人(ネウロイ人)はこぞって数日間化して狼に成り、しかる後またもや元の姿に立ちもどると云うからである」と書かれてあったり、第8巻37~38のところで「東夷軍が迫ってきてアテネ・プロナイアのところにきた時、彼らにさきに起った奇跡よりもはるかに大きな奇跡がさらに起ったのであった。(中略)東夷軍がせめてきてアテネ・プロナイアの辺に着いた時、その時天より彼らの頭上に雷が落下するとともにパルナッソス山からはもぎさかれた2個のとがった巌が大轟音とともに彼らのまんなかへおち、そして、彼らの多くをおしつぶしたし、また、プロナイアの廟からは喊声やときの声が起ったのである。(中略)以上のほかにもふしぎな現象を見たと告げたのである。すなわち、身のたけ人なみはずれた二人の武装した巨漢が追跡してきて殺戮しながら彼らのあとを追って来たと話した」と書かれたところでは、昔にもホラー映画や冒険映画のようなことがあったんだと思いました。こういう記述は読んでいて楽しいので、わからない国や人物が続いた後のオアシスという感じでした」
「確かに名前を知らない国が離合集散を繰り返して、ギリシアに味方するか、ペルシアにつくか悩んだんだろうが、君のようなギリシアやペルシアの歴史にあまり興味がない読者にとっては退屈な箇所かもしれない。それよりも紀元前5世紀頃にも狼男がいたという話の方が興味深いかもしれないね」
「ヘロドトスの『歴史』はペルシア戦争のことが書かれた歴史書として知られていますが、他にもリディアの最後の王クロイソスがペルシア(キュロス2世)に滅ぼされるところ、キュロス2世の息子カンビュセス2世のエジプト遠征、ダレイオス1世のスキティア遠征と第4巻までは主にペルシアが大国になる経緯が記されています。第5巻でイオニアの反乱が起こりギリシアとペルシアの争いが本格的に始まりますが、ギリシアといってもイオニア地方のポリスだったので、アテネ、スパルタとの戦いはクセルクセス1世によるギリシア遠征によって始まったと考えられます」
「ペルシア戦争が終わったのは何があったからかな」
「テルモピュライの戦いでレオニダス、サラミス海戦でテミストクレスが活躍してギリシアは優勢になりますが、ペルシアの敗北はクセルクセス1世から軍を引き継いだマルドニオスにプラタイアの戦いとミュカレの戦いでギリシア軍が勝利した時と言えるでしょう。クセルクセス1世はペルシア戦争に敗れた後も王位にあったようですが、第9巻の終わり近く(116~120)にアルタウクテスの不正に加担したことが書かれてあり皆から愛された王ではなかったようでペルシア戦争が終わって14年程して暗殺されました。このクセルクセス1世の暗殺を持ってヘロドトス『歴史』の終わりとすれば良かったと思うのですが・・・最後の第9巻122でアルテムバレスとキゥロスのやり取り(ペルシアの国家観?)について書かれていることは理解しにくいものでした」
「憶測にすぎないが、ヘロドトスはプラタイアの戦いで勝ってギリシアがペルシアに完全に勝利したことを自らその経緯を明らかにすることで周知させたかったのだろう。ペルシア戦争後もギリシアはアテネとスパルタが覇権を争ったペロポネソス戦争などがあって内乱状態だったと言えるが、ペルシア戦争からペロポネソス戦争に掛けての頃はソクラテス、プラトン、アリストテレス、三大悲劇詩人、偉大な科学者を輩出した黄金時代と言える。君ももう少しこの頃の本を読んだらどうかな」
「いえいえ、この本にしてもそうですが、私の理解力は大したものではありません。ただ興味がある人にわかりやすく解説しているだけです。でも興味のある本は読んでみたいので、セルバンデスの『ドン・キホーテ』を読み終えたら、ギリシアの古典を読む可能性は充分にあります」
「そうか、それなら私はそれを楽しみに待つことにしよう」