プチ小説「長い長い夜 40」

十郎は母親から、今日はお月見をするから、早く帰ってねと言われたので、帰り道を急いでいた。そのため教室を出る時に山北から、一緒に帰らないかと誘われたが、用事があるからと言って先に教室を出たのだった。それでも駅舎の近くで奥山先生から、待ち合いのベンチで少し話さないと言われた時は、めったにないことだと思い応じたのだった。京都行きの電車が来るまでの20分程の間なので、遅くならないとも思った。ベンチに座ると、奥山先生は、クラリネットのレッスンであった話を笑顔で話し始めた。
「先週はもしかしたらレッスンがお休みかなと思ったけど、別の先生が教えてくれて楽しい一時だったわ」
「いつもの先生がお休みだったんですか」
「ええ、虫垂炎で緊急手術になられて。手術は成功されて無事だったんだけどしばらくは安静にされないといけないみたいで、前回と今回はジャズ演奏が得意な先生がレッスンしてくださるの」
「講師の先生にも得意、不得意があるんですか」
「音楽教室の先生は音楽大学で基礎的なことは習うから、どのジャンルの音楽も幅広く学ぶけどその後は自分が得意なジャンルの音楽を極めるみたい。クラシックを中心に幅広く音楽が演奏できるように研鑽を積むんだけど、やっぱり就職先によってどのジャンルをするか決まるみたい」
「そうですね、オーケストラの楽団員やクラシック音楽を教える先生だったら、あまりジャズは・・・」
「そうね、いろいろやらないといけないことがあるから、好きでも我慢しないと。その先生は仲間の人と一緒にライヴハウスでジャズの音楽を演奏しているのよ。それはやはりジャズという音楽が会場の聴衆と一体となって盛り上げる音楽だからそういうことが必要だと思うの。長い時間主にひとりで部屋にいて練習することが多いクラシック音楽の練習とはちょっと違うみたい」
「その先生がいつものレッスンをされたのですか」
「ええ、やっぱりそれはしてもらわないと・・・でもその先生、レッスンを早い目に切り上げて、ちょっと面白いことをしましょうと言って、部屋の隅にあったアナログレコードを掛け始めたの」
「好きなクラシック音楽とかですか」
「いいえ、先生は、ジャズが好きで、特にこの曲が好きなんです。こうして楽しむこともできますしと言って、レコードに合わせて演奏を始められたの」
「ピアノ伴奏みたいにですか」
「習っている先生が以前言われていたけれど、私が習っているクラリネットはテキスト、アルバムともB♭管用の楽譜だから、他の楽器、例えばフルートで演奏すると伴奏と合わなくなるの。だから逆に普通使われている、クラシック、ジャズ、ポップスの楽譜をB♭管用に転調すればピアノ伴奏に合わせてB♭管のクラリネットで演奏できる」
「確か、その楽譜の調号に♯を2つつけて、2度上げるんでしたね」
「そう。演奏が終わってから、その先生は笑顔で言ったの。こうすれば、もっとクラリネットで演奏したくなるでしょって。それからこんな風にして演奏したい曲がありますかって尋ねられたから、私、ルチア・ポップの大ファンだから、彼女の歌に合わせて、「月に寄せる歌」(ドヴォルザーク歌劇「ルサルカ」から)、とか「ソルヴェイグの歌」(グリーグ劇付随音楽「ペール・ギュント」から)をクラリネットで演奏出来たら素敵だなと思っていますと言ったら、レコードがあるなら、楽譜を作成してそのレコードに合わせて吹いてみてください。そうすればルチア・ポップのことがもっと好きになりますからと言われたの。ああ、電車が来たようだわ。無理につき合わせて、悪かったわね」
「いいえ、全然、でも先生のお話を聞いて、クラリネットが身近になった気がします」
そうね、それが私のねらいだったのよ、さよならと奥山先生はつぶやくと改札口の方に足早に歩いて行った。