プチ小説「月に寄せて5」

上野は転勤して稲田とのやりとりは一旦途絶えると考えていたが、引っ越してしばらくして
彼女から手紙が届いた。上野は稲田に、何か仕事上で困ったことがあれば気軽に会社に連絡
してもらっていいと言っていた。上野は少し期待に胸をふくらませて手紙を開封したが、
便せん1枚に万年筆で次のように書かれてあった。

秋も深まりそちらは寒さが一層身にしみることと思いますが、お元気でお過ごしでしょうか。
私は入社してすぐそちらの工場に研修で行ったことがあるので、上野様がお困りの時に
お手伝いできるかもしれません。とにかくそちらは冬が厳しいところなので、お身体を大切に
して下さい。わたしは上野様の後任として日々頑張っていますが、まだまだ至らないところが
ありますので、早く上野様のように指導できるようになりたいと思っています。
話は変わりますが、上野様は実家がこちらと言われていましたね。きっと年に何回かは戻って
来られると思うのですが、その時に「仕事は捗っているかい」と声を掛けていただければ
と思います(その時は出社します)。正直なところ、上野様との出会いを大切にしたいと
思っています。それでこんなことを書いてしまいました。仕事だけでなく、いろいろなことを
教えていただければと思います。かしこ。

上野はさっそく手紙を出したが、会社宛にはがきで当たり障りのない返事を書くに留まった。

拝啓。お手紙ありがとうございました。稲田様の言われるように、寒い長い冬の予告編とも
言える、寒波が11月にやって来て雪を残して行きました。夜、帰宅する時に見る月もこちらでは
心なしか蒼みを帯びているようで、寒いところにやって来たのだと思わせます。本格的な冬は
12月からのようですが、もうすでに外出の際には長いコートが必需品です。わたしのことばかり
書いてしまいました。稲田様はお仕事の方はいかがですか。もう少しきちんと引き継ぎをして
おいたらというところもありますので、お困りの節はいつでもご連絡下さい。実家には定期的に
帰る予定ですが、こちらの仕事に慣れてから、そう2ヶ月先には一度帰ろうと思っていますので、
その際には稲田様を訪ねるようにします。寒い折、お身体を大切に。敬具。
追伸。仕事人間の私ですが、お役に立てられそうなことならなんでもご相談下さい。

その後、二人の間で何度か手紙のやり取りがあって、2月初旬に上野が休日出勤している
稲田を訪ねて行くことになった。