プチ小説「月に寄せて6」
上野が転勤前に勤めていた工場は休日に工場の機械は動いていなかったが、管理棟に入って仕事を
することはできた。工場の入口で出入りをチェックする警備員は上野のことをよく知っていて、
用事があって来たというとすぐに中に入らせてくれた。以前、上野が仕事をしていた事務所に入ると
稲田が背中を向けて仕事をしているのが見えた。上野はしばらく稲田の後ろ姿を見ていたが、
他に人がいないためか仕事に没頭していて、上野に気が付かないようだった。
<こういう場合にどうすれば、一番自然なんだろう。咳払いかな、名前を呼ぶのがいいのかな。それとも
鼻歌でも...。そうだ!稲田さんを少し試してみよう>
上野は歌が得意だったので、最初は小さな声で初めてだんだん大きく「ルサルカ」の月に寄せる歌を
ハミングした。稲田は最初少し驚いたが、しばらくは上野の歌声に耳を傾けていた。
上野の歌が一段落つくと稲田は自分から笑顔で話し掛けた。
「白銀の月ね。そうね、月に寄せる歌とも言う、とてもロマンティックな曲だわ。ルサルカが天に輝く
銀色の月に願いをかける曲だけれど...」
そう言うと、しばらく稲田は上野の瞳を見つめていた。
「どうしたの...」
「だって、このオペラが余りに悲しいので...。上野さんはこの曲がお好きなの」
「そうだなー、ぼくは理解力が乏しいからか、童話を楽しむように「ルサルカ」を聞いたけれど...。どのあたりが...」
「ひとつは、王子はルサルカの容姿の美しさに引かれてお城に連れて来たけれど、
王子は話せないルサルカ(水の精ルサルカは魔女のおばあさんに美しい人間の女性にしてもらう代わりに
話すことができないようにされてしまうの)に飽きてしまって、別のお姫様を好きになるところ。ほんとに
自分勝手なんだから。結局、王子はそのことを悔いて、ルサルカに出会ったところにやって来る。
それともうひとつは、そこで王子はルサルカと再会するのだけれど、ルサルカと接吻すると死んでしまう
ことを知りながら、王子はルサルカを抱擁して接吻...。まあ、上野さんにこんな言葉を言ったりして...。
でも、頑張って最後まで話すわ。王子が死んでしまって、ルサルカが自分の罪を悔いるのかと思っていたら、
最後は、「死んだ恋人にもう一度接吻すると、人間世界に探し求めていた幸福を与えられ、満足して
自分が生まれた世界に帰って行く」となっているところ」
「確かにそういうシーンがあるね。何か教訓みたいなものがあるのかもしれない。ボタンの掛け違いのような...」
「それにしても、突然、後ろで歌が聞こえた時は少しびっくりしたわ。でも、とてもいい声だった」
「あー、ごめん、ごめん。本当なら、「仕事は捗っているかい」と言うべきだった。お詫びと言ってはなんだが、
ここにケーキを買って来ているから、これでも食べて機嫌を直して...」
「いいえ、とてもすてきな演出だわ。お茶を入れて来るから、寛いでいて下さいな」