プチ小説「月に寄せて7」

上野が工場を後にしてしばらく行くと、線路沿いの道に出た。辺りは夜の帳が下りていた。周りに誰も
いないのを見て、上野はしばらく独り言を言った。
「稲田さんはもうしばらく仕事をするからと言って、一緒に帰るのを断ったけれどぼくが今夜の夜行バスで
 帰らないといけないから、気を使ってくれたんだと思う。ここは来月も工場で会うことを約束してくれ
 たんだから我慢しないと。わがまま言って一緒に食事ができたとしても、あとが大変だ。稲田さんは早朝に
 出勤して仕事をしなければならなくなるし、ぼくの方は明日の朝に会社に行けなくなるから、遅刻の理由を
 考えなければならなくなる。学生時代なら、こんなことで悩まなくていいんだけれど、お互い働いているから」
ふと上野が顔を上げると向かいから女性がやって来るのが見えたが、だんだん近づいて来ると上野は落ち着かなく
なって来た。以前に会ったことがある女性だったからだ。女性は笑顔で話し掛けて来た。
「お久しぶりですね。転勤すると言われていたけれど、その後どうしていらしたの」
上野は、稲田と楽しく過ごした後だったので疎ましく思ったが、ことを円満に解決しようと穏やかに話し掛けた。
「実は、今日は用事があって今住んでいる東北から帰って来たんだけれど、明日仕事があるんで午後8時の夜行バスで
 帰らないといけない。急ぐのでこれで失礼します」
上野が駅に向かって歩き始めると、その女性はすぐそばに寄り添うようにして歩いた。駅にもうすぐ着くという
ところで女性は何か言おうとしたが、ちょうどその時電車が通過して彼女の話すべてを上野に聞き取らせなかった。
上野はただ、「私はあなたのことをよく知っているの」ガタンガタンガタンガタンガタン「そういうことだから、
いつでもいいわ、私に会いに来て。前にも言ったことがあるけれど、私、待つことは苦にならないから」とだけ
聞こえた。彼女は前回と同じように上野が握手を求めると思って、手を差し出した。上野はその手を見て、どうしよう
と思ったが、彼女の顔を見つめて、「今日はよそう」と言って改札口へと向かった。

<それにしても、彼女の美しさは...。暗闇の中で彼女に声を掛けられた時は、別に何とも思わなかったけれど、
 駅前の明るい街灯に照らされた彼女ははっとする美しさだった。稲田さんと仲良くやって行こうと思っていたのが、
 どうなるかわからない。稲田さんと相変わらず工場の中で親しく話すだけなら、白銀の美女の誘惑に勝てないだろう。
 願わくば、白銀の美女に、そう言えば彼女の名前はなんと言うのだろうか、会わないよう祈るだけだ>
上野は駅のホームから空を見上げると、限りなく新月に近い月の近くに木星が輝いていた。
<惑星の中でも1、2の輝きを競う木星だけれど、月と並べたらその輝きの違いは歴然だ。女性の魅力は何も輝きだけ
 ではないはずなのに、ステディな関係になっていないとそれが男の心を突き動かす最大のものとなる。稲田さんとの
 関係を大切にしたいが、今度また白銀の美女が目の前に現れて...。いや、意志を強く持ってそんなことにならない
 ようにしよう。そうだ、また同じ時間に工場から出ることになったら、全力疾走で駅まで走ろう>
電車に乗って稲田が仕事を続けている工場の前を通る時、上野は両手を組んで固く握り、どうか道に迷うことがない
ようにと目を閉じて祈った。