プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生2」

小川は、梅田の紀伊国屋書店にやって来た。ディケンズの「大いなる遺産」の原文(ペンギンブックス)
を少し見てみたかったからだ。主人公である、ピップがエステラに告白するところ(第44章)があり、
その英文を知っていれば何かの役に立つかと考えたからだった。オレンジ色の背表紙の中に
GREAT EXPECTATIONS と書かれたペーパーバックを見つけ、1ページ目を開いた時、小川は余りの
驚きに声を失った。表紙の裏にある、ディケンズの肖像画がにこやかに話し掛けて来たからだ。
それでも2回目のことだったので、平静を取り戻すのは早かった。
「先生、こんなところに出て来ちゃあ、駄目じゃないですか」
「私の本を原書で読んでくれるのだから、ここは謝意を表さないと」
「先生、手に取っただけで買うかどうかわかりませんよ。貧乏学生なんですから。それに法学部の
 学生がイギリス文学の原書を読んでも評価されませんよ」
「いや、きっと買うと思うな。だって、きみはピップが使う、フレーズを告白する時に使おうと
 思っているんだろ、それを英語で言うためにはやはり購入しないと...」
「先生、おっしゃる通りですが...。しーっ。人が来ますよ」

「先生、ここでならゆっくり話せますよ。結局、GREAT EXPECTATIONS を購入しましたから」
「そうか、ありがとう」
「でも、先生とお会いできる機会は当分なさそうですよ」
「なぜかね」
「1、2回生は一般教養を身につけようと思って、文学をたくさん読みました。もちろん先生の
 著書は全部読みました。また先生にお会いできると思っていたんです。全部読んでしまったので、
 この次何をすれば先生にお会いできるのかなと...。それに3回生になると専門科目の本もたくさん
 読まなければならなくなりますし」
「ははは、人と本との出会いは、学生時代だけじゃないよ。私の著作は古書の中にもいいものが
あるので、社会人になって時間とお金ができたら、古本屋で探してごらん。ではまた」

気が付くと小川は中の島公園のベンチでペーパーバックを片手にうたた寝をしていた。もう一度、
表紙の裏の肖像画を見ると文豪はもとの澄ました顔をしていた。

註)このお話は、1983年頃のことです。