プチ小説「月に寄せて9」

仙台から大阪に向かう夜行バスに乗車した上野は、車内の灯りが消されてしばらくすると眠りに落ちた。

気が付くと、小川は以前勤めていた工場の門の前にいた。
<おかしいぞ、まだ稲田さんに会っていないのに...。だのに、もうあたりは暗くなっている。余りうしろを
 見たくないが...。やはり、今日も白銀の美女がいるぞ。あっ、今日は自転車に乗っている。困ったなあ。
 おっ、しめた。丁度いいところにタクシーが来たぞ。今日はこれで、振り切ることにしよう>
上野は、千円払うから大急ぎで近くの駅まで飛ばしてくれとタクシーの運転手に言った。
タクシーはやがて走り出し、だんだん彼女の姿が遠くになって行ったが、線路沿いの道の丁度中間点の辺りで
彼女が盛り返し駅の50メートル手前ではタクシーの横にぴったりとくっついた。
<こ、これは、いかん。なんとかしないと>
そう言って、上野が窓ガラスにほっぺたをくっ付けて外を伺っていると、白銀の美女はさらに加速して
車より数秒前にゴールに到着し、上野が乗車するタクシーを待ち構えていた。
<おおぅっと。あまいなー。ここで降りるとは限らないよーだ>
「運転手さん、やはりもう一つ向こうの駅まで行ってくれ」
上野は数回同じことを繰り返したが、白銀の美女は強靭な下半身を持っているのか、いつまでもついてきた。
自転車のペダルをこぐ足は高速で回転するため、ほとんど見えなかった。
観念した上野はタクシー代を支払って、外に出るとそこに白銀の美女がやってきた。白銀の美女は上野に言った。
「ほんとうに往生際が悪いわね。でも観念したのなら、私に付いてらっしゃい」
上野が差し出された手を振り払っていると、白銀の美女は上野のほっぺたをつねり始めた。
「いたたたーっ。やめて、ごめんなさい」

「だから、ほっぺたをつねるのは良くないって言ったじゃないか」
と夜行バスの運転手が言った。
「でも、このお客さん、さっきから何度も何度もからだを揺すっても起きないんだから...」
と夜行バスの車掌が言った。
「ああ、もう着きましたか。お騒がせしました。すぐに降ります」
と言って、上野は夜行バスを降りて、以前勤めていた工場に向かった。